新曲紹介『SENSITIVE NIGHTMARE』
Kamuya Kurai feat. 初音ミクによるトランステクノ作品『SENSITIVE NIGHTMARE』をニコニコ動画にて公開しました。2011年の第一弾作品です。
ぼくの音楽は、基本的に「クリスチャン・ミュージック」(聖書に基づく作品)か、あるいは、いわゆる「日本的なもの」を扱っている作品がほとんどですが、今回は、あえて、そのどちらでもない「資本主義システムが喚起する実存的な不安」を歌詩に込めてみました。聴きようによっては、かなり攻撃的な内容です。
ぼくの音楽は、基本的に「クリスチャン・ミュージック」(聖書に基づく作品)か、あるいは、いわゆる「日本的なもの」を扱っている作品がほとんどですが、今回は、あえて、そのどちらでもない「資本主義システムが喚起する実存的な不安」を歌詩に込めてみました。聴きようによっては、かなり攻撃的な内容です。
資本主義市場経済のマネーゲームによって、個人の「恋愛」のような感情、あるいは、じぶん自身の「身体」そのものすら「商品」に還元されてしまうなかで感じてしまう内的な不安・焦燥。しかし、そうであってもなお失われぬ、ふれあえることのないはずの<他者>へのまなざし。
ご意見、感想よろしくです。
※2月に公開した作品です。ブログでの紹介が遅れてしまいました。
人格的な応答の可能性について
今週の日曜礼拝のテーマは、「人格的な応答の可能性について」。先週にひきつづきカント哲学をふまえて、「日常生活でのさまざまな行為をとおして、たがいに尊重しあえる関係をむすぶにはどうすればよいか?」を考えた。(先週のぼくの発言はきちんと伝わっていなかったので、再度コメントしてみた)。
礼拝のなかでの結論は、「互いに目的としあう行為かどうか? 相手を一方的に手段として利用していないか?」だった。この観点そのものに異論はない。しかし、この観点を妄信して「結婚は互いを目的としあう行為で、売春は互いを手段とする行為で、……」と腑分けしてしまうのは、かなり危険だと思う。
ぼくが言いたかったのは、ただひとつ。「『売春は正しくない』と言うのはよい。しかし、売春をしたことがある人の目の前で『お前は正しくない』と言うことはできない」。「売春」を一般化して語ってしまうと、そのような行為によってしか生きる術のない人の動機や苦悩を読みとることがむずかしくなる。
逆言すれば、こうも言える。(論理はおなじ)。「『結婚は正しい』と言うのはよい。しかし、結婚生活が完全に破綻している人の目の前で『離婚は正しくない』と言うことはできない」。「結婚」を一般化して語ってしまうと、個別の状況に置かれて苦悩している人々の内面を読みとることがむずかしくなる。
学寮内のクローズドな礼拝であればいいけど、教会や各地の集会所で行われている礼拝には、いろいろな悩みをかかえた人たちが集まってくる。極論だけど、売春によってしか生きる術をもたない女性が、罪の意識に苛まれ、最後の救いをもとめて訪れた教会で「売春は正しくない」と宣告されたらどうなるか。
「正しさとは何か」といった問いかけは、哲学者たちがやってくれている。その知見から真摯に学ぶ姿勢は大切だけど、信仰者あるいは信仰を求める者としては、つねに「一般化して語ること」を警戒しなくてはならない。それは、使い方をまちがえると、人格的な応答を不可能にする「裁きのツール」と化す。
「人格的な応答」を可能とするには、既存の理論・方法論を妄信しないこと(否定するのではなく、それぞれの有効性と限界を把握する)、つねに行為主体の内的主観性に還元して考えること(ありていにいえば、「想像力・共感力」の必要性)が必要になる。つねに、個別性における「正しさ」を論じること。
註:もちろん、他者の内的主観を覗くことはできない。哲学的には、この「相互主観性」はかなりやっかいな問いを孕んでいる。しかし、信仰のレベルにおいては、「すべての人々の内面を知っている超越的な存在=神」という審級が前提とされているので、この相互主観性の問題はさしあたりスルーしてよい。
目の前の他者の内的主観に還元して思考する「想像力・共感力」こそが、また、目の前の特定の他者のための言葉を語ることこそが、信仰のレベルでは大切だと思う。「一般化された正しさ」を断定するのではない、「一人ひとりの固有性における正しさ」をみつめることが、「人格的な応答」の出発点になる。
覚書 ~グローバリゼーションと人間の主体的態度表明について~
今日は、グローバリゼーションをテーマとするプチ研究会だった。(そのつもりはなかったけど、気がついたら、そんな議論になっていた)。グローバル化は進行しているが、それは「世界が一つになること」ではなく、「世界は一つではないということが、全体情勢のなかであきらかになること」だといえる。
グローバリズムとは、あるひとつの普遍的な枠組み(=構造)によって世界を把握しようとするイズムにほかならない。世界の内部に生活している人々(=主体)に焦点化するならば、その枠組みを受容するのか、対抗するのか、(あるいは、別の可能性を選択するのか)という態度表明を迫られることになる。
人間(=主体)の思考は、言語によって規定される。(人間をとりまく文化・習慣だって、つきつめれば、ことばによって形づくられ、受け継がれていく)。そして、具体的な言語活動の運用は、ことばの法則(=ラング)をたがいに共有する「自己-他者」を前提とする点で、コミニュケーション論的である。
だから、「ある特定の状況下において、人間は、いかにして主体的な態度表明をするのか?」を考えたければ、まずもって、「ことばによるコミニュケーション」について考えなくてはならない。政治、経済、文化、宗教、国家、文学、音楽、人間……すべては言語によって思考され、また、思考するのだから。
たがいに目的としあって生きていく方法
今週の日曜礼拝では、カント哲学をふまえて、「相互尊重=たがいに目的としあって生きていく方法」について考えた。自己の欲望を達成する手段として他者と接するのか、それとも、他者の人格そのものを目的として接するのか。これは、日常生活でのふるまいから政治・経済のあり方にまでかかわるテーマ。
ただし、目的-手段は互いに切り離せないものだから、「他者を目的とする行為」と「他者を手段とする行為」の例をそれぞれ挙げていけばいいという単純な話ではない。たとえば、「恋愛」のばあい、当事者二人の内面的なありようによって、互いを目的としあうものともなれば、手段としあうものにもなる。
家庭の場合、夫の金銭的な稼ぎを求める妻だって、夫を「カネを産む機械」として手段化しているのではなく、「子どもの生活のため」といった他者の人格を尊重する目的を伴っていれば、それは、相互尊重的な生き方にかなっている。(逆言すれば、そうした目的のない守銭奴の生活は相互尊重的ではない)。
目的-手段は互いに切り離せないものだから、どんな行為に対しても、「なにを目的とするのか」をある程度意識化することが大切になる。(「あの行為は、相手を目的としてみることで、この行為は、相手を手段としてみることで、……」といった腑分けの仕方は、かえって混乱を招くおそれがあると思う)。
ということを考えた。(礼拝での議論が「他者を純粋な目的とする生き方はあるのか」VS「どんな人でも他者を手段とみなしてるところはあるよね」という二つの意見のあいだで思考分裂していた気がしたので、「目的と手段のはしごを掛けちがえないことが大切なのだ」という見方をそっと提起しておく)。
さよならヤマハ渋谷店コンサート(at SHIBUYA-AX)参戦日記
さよならヤマハ渋谷店コンサート(at SHIBUYA-AX)から帰宅した。1960年代から日本の音楽シーンを支えてきたヤマハ渋谷店が2010年末に閉店。それを受けて、ゆかりのあるアーティストたちがTwitter経由で呼びかけ合って実現した今回のコンサート。圧巻だった。
今回の出演者は、向谷さんのMCアナウンスによれば「総勢41名」とのこと。個人的には、ちいさいころから大好きだった爆風スランプの『RUNNER』やYMOの『BEHIND THE MASK』を、ふつうではありえない豪華バンドによる生演奏で聴くことができて、うれしかった。
機材面では、巨大なアナログ・シンセサイザー(通称:タンス)を筆頭に、YAMAHAの歴代シンセはもちろん、RolandやOberheimに至るまで、まるで「音楽博物館のバックヤードに迷い込んだ」かのような、シンセファン垂涎の布陣。まさに「シンセ軍団」と呼ぶにふさわしい。
今回のコンサートの成功は、「21世紀における音楽のあり方」を考える上で、まさに「偉業」である。アーティスト自身がTwitterで呼びかけ、日本全国、さらには全世界から観客が集う。もはやリアルとかバーチャルとかの区分ではない。「アクチュアルな音楽の出逢い」が実現した。
「実名-匿名論争」~第三項としての筆名について、あれこれ~
インターネット言論で信念対立が起こるたびに「実名-匿名論争」とでも言うべきものが蒸し返される。簡単にいうと「実名=責任ある言論」みたいな図式。ある程度の事実を言い当てているのかもしれないけど、じっさいには、じぶんの「筆名」に責任を持っている人はたくさんいる。ぼくだって筆名なのだ。
ぼくの筆名は、イラク戦争や皇位継承問題について意見を書いてたころから使いつづけていて、たぶん、「実名で認知してくれている人」よりも「筆名で認知してくれている人」のほうが圧倒的に多い。そういった方々とは、当然、リアル世界での親交も生まれるわけで、他者への責任はおのずと芽生えてくる。
それにしても、この名前でずいぶん戦ってきたなという感慨はある。
ぼくの主張は、いつだって、「よく言えば中道、わるく言えば中途半端」だった。この“中途半端さ”を理論的にささえるコトバをさがしてた。それがハインリッヒ・ロムバッハだったり、カール・バルトだったり。とはいえ、いまは、「振り切れる勇気のほうが大事かもしれない」と思うこともときどきある。