倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

たがいに目的としあって生きていく方法

 今週の日曜礼拝では、カント哲学をふまえて、「相互尊重=たがいに目的としあって生きていく方法」について考えた。自己の欲望を達成する手段として他者と接するのか、それとも、他者の人格そのものを目的として接するのか。これは、日常生活でのふるまいから政治・経済のあり方にまでかかわるテーマ。
 

 ただし、目的-手段は互いに切り離せないものだから、「他者を目的とする行為」と「他者を手段とする行為」の例をそれぞれ挙げていけばいいという単純な話ではない。たとえば、「恋愛」のばあい、当事者二人の内面的なありようによって、互いを目的としあうものともなれば、手段としあうものにもなる。


 家庭の場合、夫の金銭的な稼ぎを求める妻だって、夫を「カネを産む機械」として手段化しているのではなく、「子どもの生活のため」といった他者の人格を尊重する目的を伴っていれば、それは、相互尊重的な生き方にかなっている。(逆言すれば、そうした目的のない守銭奴の生活は相互尊重的ではない)。


 目的-手段は互いに切り離せないものだから、どんな行為に対しても、「なにを目的とするのか」をある程度意識化することが大切になる。(「あの行為は、相手を目的としてみることで、この行為は、相手を手段としてみることで、……」といった腑分けの仕方は、かえって混乱を招くおそれがあると思う)。


 ということを考えた。(礼拝での議論が「他者を純粋な目的とする生き方はあるのか」VS「どんな人でも他者を手段とみなしてるところはあるよね」という二つの意見のあいだで思考分裂していた気がしたので、「目的と手段のはしごを掛けちがえないことが大切なのだ」という見方をそっと提起しておく)。