倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

僕は如何にして独立系研究者となりしか 〜或いは、一人の神経衰弱な創作家の独白〜

・はじめに

 このブログを更新するのは約五年ぶりである。二〇一三(平成二五)年以降、僕は、独立系研究者としての道行きを歩むことになった。一方、このブログに記録されているのは、専ら大学院進学に向けて学んでいた時期(大学三年生〜)と大学院在学中(修士課程及び博士課程)の出来事である。二〇一三年以降、五年間の来歴に就いては、完く語り落とされている。

 

・目的

 本稿の目的は、久しぶりの更新にあたって、語られていない時期の出来事を言語化し、自己省察を行うことである。(※2019年11月30日註記:本稿は、2018年に執筆された。文書ファイルの作成日付は「6月1日」となっている。しかしながら、本来の目的であった「語られていない時期」、すなわち、2013年以降の「出来事」の「言語化」は為されていない。ブログ以降を契機に、参考資料として公開する。これが、自伝的小説の一部であるのか、虚構を絡めた事実であるのか、それはここでは留保しておく。

 

・このブログの設立まで

 さかのぼれば、このブログを開設したのは二〇〇五(平成一七)年のことである。当時の僕は、西南学院大学の国際文化学部に在籍していた。三年生の後期である。北九州の自宅と福岡市内の大学との間で片道九〇分の“越境通学”の日々であった。のみならず、学芸員課程の講義が五限目に開講されるため、平日は疲弊した。また、大学二年生の終わりから二度、文芸誌の新人賞に応募したものの、長篇を不得手としたために“鳴かず飛ばず”の結果であった。当時の僕は、漠然と小説家になりたいと考えていた。学内で刊行されていた同人誌に寄稿した他に大きな結果を出すこともなく、将来の目標も不明瞭なまま、しかし依然として「学問や芸術活動のために生きたい」という不遜な考えを棄てられずにいた。そんな折、指導教員であった斎藤末弘先生(キリスト教文学者である椎名麟三の弟子)に薦められ、大学院進学に向けて受験準備をはじめた。

 

 実は、それまでの僕は、インターネットの利用に対して積極的ではなかった。当時、二〇〇三(平成一五)年三月に開戦したイラク戦争自衛隊の海外派遣に反対の論陣を張っていた西部邁の著作を愛読しており、ITに対する懐疑の念は彼の影響に依る処が大きかった。だが、大学院での学問的な研鑽を真剣に考えるにあたって、東京の大学(研究室)に関する情報が欲しかった。西南大学図書館のPC室から首都圏の大学のホームページを閲覧したのが、僕のインターネット体験の最初期である。このブログは、そのような時期のふとした時間に何気なく開設したものである。

 

 当初、僕は所謂「自分語り」を嫌悪していた。一般に「私小説」と呼ばれる、語り手と作者の主体性が不可分に結びつけられる制度。……否、そのような教科書的(?)な解説はここでは措こう。僕は寧ろ、近代小説のフィクション性、創造性を支えている技巧表現に傾倒していた。だからこそ、芥川龍之介横光利一の小説に惹かれていた。畢竟、それだけのことである。一方、このブログでは「自分語り」と言うほかない更新内容も多かった。(以下、未稿) 

 

・大学院進学後

 しかしながら、早稲田大学の大学院文学研究科に進学した直後、僕は失望を覚えることになった。(以下、未稿)

  

・まとめ

 以上、本稿では、約五年ぶりのブログ記事の更新にあたって、語られていなかった二〇一三(平成二五)年以降の出来事を言語化し、自己省察を行うことを試みた。僕は独立系研究者としての道行きを歩むことになったが、実際には、人生の目標を喪失したまま、それでも尚、「生きること」を諦めることができなかっただけである。(以下、未稿)

 

(※2019年11月30日註記:ここで、筆者が最後に書きつけた「生きること」が何を意味するのか、自分自身でも思い出せない。とはいえ、この一語が本稿の「まとめ」の一文の中で、何らかの意味をもっていることは疑えない。「人生の目標」を「喪失」しても尚、諦めきれない「生きること」とは何か。それをこれから考えたい。