倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

有為の奥山、今夜は越えん

表現者」賞の応募原稿、あきらめました。今日まで……というか、いまのいままで書いてたんですが、3月中に自分の納得のいくところまでいきそうにないので、あらためて別のところに投稿するか、来年まであたためておくことに決めました。

なんだか書いてるうちに、『レイテ戦記』だけにとどまらない大岡昇平という一個の人間を貫いている「救い」のモティーフを取り出すという、壮大なテーマになってきて(笑)、未熟な筆で投稿すると、とくに富岡幸一郎先生からきびしいツッコミが入りそうです(笑)。

これまでの『レイテ戦記』論は、死者への「鎮魂」というところが中心に語られてきました。だけど、それだけにとどまってしまうと、「なぜ鎮魂するのか」もわからないし、ひいていえば、「そもそもなぜ『レイテ戦記』を読むのか」もわからない。まあそこらへんは、読者ひとりひとりが答えを出すべきなんだろうけど、僕自身がさいしょに『レイテ戦記』を読んだときの、なんともいえない重い実感、あの“読む苦しみ”にすこしも近づけていない気がしたり。。

もうひとつの根本モティーフとして、「僕自身はあの戦争を経験していないのに、どうしてあの戦争とぼくに関係があるのか」というところを考えてみたかったのです。じつはこれ、もう5年ぐらい前からこだわっていた問題のひとつ。もちろん、経験していない=無関係とは思わないけれど、じゃあどうして戦争について考えなくてはならないのか。あるいは、戦争について考えることでどのような積極的なメリットがあるのか。。

ある意味、学術論文ならそこまで書かなくてかまいません。なぜかというと、学術論文は象牙の塔のなかで業績をつくるための“出世のためのパスポート”にすぎないから。(注:ぼくの独断と偏見入ってます)。だけど、今回のは評論だし、できれば今度こそ筆名で出したいというのもあったし、自分自身の内的判断で、動かしがたい確信が生じるまで書き尽くしたい。(以前、実名で学術論文をいくつか出してみて、ぜんぜんよろこべなかったのが実感として残っているので)。

じつはゆうべから、信じられないぐらいのスピードで原稿が書けていました。ひょっとしたら3月中に間に合うかな?と甘い期待をしてたんですが、神はそんなに甘くない。けっきょく、「鎮魂」を通り抜けて、「希望」、そして、「救い」とは何か、という新しい問いをつぎつぎにぼくへ投げかけていきました。

これらの問いは、ぼくにとっては初見のものではありません。じつは学部時代、すでに斉藤末弘先生から投げかけられたことがあったんです。(そういえば。笑)。

当時、形式主義批評というか、ロラン・バルトやジェラール・ジュネットあたりの物語言説の形式を分析するタイプの方法論にかぶれていたぼくに、斉藤先生はひとこといいました。「それで、テクスト論にとって“救い”とは何か」と。あのときは、理論研究について語っていたぼくもすっかり黙ってしまったのを覚えています。いまになって、あの問いかけが持っていた重さ、深さが、ますます身にしみてきました。

苦しみと悲しみに渦巻いているこの地上で、にもかかわらず「希望」を持って生きるにはどうすればよいか? そして、どうすれば「救い」を見出すことができるのか? こうした問いは、この世界に生かされているすべての存在にあてはまる、初歩的であり、なおかつ原理的な問いであると思います。

これらの問いに答えるためには、大岡昇平の作品を通読するだけではなく、聖書やカール・バルトをはじめとする神学にも通暁していなくてはなりません。(もし機会があったら、あのとき「カールよりロラン」などと言ってしまったこと、斉藤先生に謝りたいです)。

いまはひさしぶりに「書く愉しみ」を感じています。もうちょっと深いところまでいける気がします。うれしいですね、こういう実感☆



※20:07 付記。執筆にかまけて、ちば知事選の投票しそこねた(笑)。