倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「有為転変」という秩序

「今年こそは旧約聖書を通読しよう」と、決意したのはよいのだが、たまたま開いた申命記の断定口調にかなりげんなりしてしまい、しばし中断の最中である▽・ω・▽ まだまだ道は長いと思われ。いっしょに研鑽しあう朋友が(たとえ遠方であれ)いたらいいのに。。

そんな今日は3月17日。三年前の今日は、大学院進学に向けて東京の大学を観るために上京した、そんな記憶がある。(あれが、物心ついて最初の in 東京 でした)。そして、明治三十一年の今日は、横光利一の誕生日。ほがらかな季節の生まれらしく、彼は終生、“誠実な人”であったらしい。

大学院に進学してから、これまでの二年間、すっかり暗礁に乗り上げてしまった『上海』研究だけど、つい最近になって、ふいに“つまづきの石”のありかに気がついた。

これまで、「『上海』はむずかしい」というのが研究史上の常識だったけど、じつはこれ、“共同幻想”にすぎない。その確信をいったんカッコに入れて、「『上海』はかんたん」という仮定の下に読みはじめてみると、いままで読めなかったことがどんどん読めてくることに気がついた。ようするに、「怖がってるうちは自転車に乗れない」のと同型の論理で、つまづきの原因は、僕の認識の内部にあったのだ。

今日は海を見に行ってきた。こないだは夜中の二時に行ってきたのだが、今日は夕方の五時頃に郵便局の帰りがけ、「夕日を見送るのもいいかな」と思い立ってそのまま海に向った。どうせ家にいたって、べんきょうがはかどる気配はない。今月末が締め切りの「表現者」賞の応募原稿はまったく書けていないのにね。

(とりあえず、大岡昇平の『レイテ戦記』について書いてみる予定で、今日は関連作品として『野火』を読んだ)。

こないだは暗闇のなかで、展望台の下は砂浜だと思って、「とびおりてもだいじょうぶかな」と思っていたところが、じつは砂浜ではなく荒いアスファルトだったことがわかり、こないだは一歩まちがえば、たった一人の深夜の海辺であやうく骨折するところだった、ということを知った。実行力がないほうがいいということもある。

ともあれ、波の動きや雲の流れ、上空をすべっていく旅客機の軌跡をみているうちに、「世界は意外と単純なのだな」と思うようになった。

つい最近まで、「世界は複雑で、多様性に満ちている」と信じていた。いま考えると、なんていう皮相な見方をしていたんだろう、としか思えないけれど、そのころは本気で信じて疑わなかった。ものごとがクリアーにみえてくると、たしかなことは一つだけだということがわかってくる。あらゆるものは生き、そして死んでいく。多様性などない、複雑でもない。そこには一点の秩序しかないのだ。太陽が昇り、そして沈んでいくように。

以上、夕闇の海で考えたことなど。あまり整頓して書こうという気にならなかったので、ちょっとごちゃごちゃしてるかもしれません。