倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

人格的な応答の可能性について

 今週の日曜礼拝のテーマは、「人格的な応答の可能性について」。先週にひきつづきカント哲学をふまえて、「日常生活でのさまざまな行為をとおして、たがいに尊重しあえる関係をむすぶにはどうすればよいか?」を考えた。(先週のぼくの発言はきちんと伝わっていなかったので、再度コメントしてみた)。

 礼拝のなかでの結論は、「互いに目的としあう行為かどうか? 相手を一方的に手段として利用していないか?」だった。この観点そのものに異論はない。しかし、この観点を妄信して「結婚は互いを目的としあう行為で、売春は互いを手段とする行為で、……」と腑分けしてしまうのは、かなり危険だと思う。

 ぼくが言いたかったのは、ただひとつ。「『売春は正しくない』と言うのはよい。しかし、売春をしたことがある人の目の前で『お前は正しくない』と言うことはできない」。「売春」を一般化して語ってしまうと、そのような行為によってしか生きる術のない人の動機や苦悩を読みとることがむずかしくなる。

 逆言すれば、こうも言える。(論理はおなじ)。「『結婚は正しい』と言うのはよい。しかし、結婚生活が完全に破綻している人の目の前で『離婚は正しくない』と言うことはできない」。「結婚」を一般化して語ってしまうと、個別の状況に置かれて苦悩している人々の内面を読みとることがむずかしくなる。

 学寮内のクローズドな礼拝であればいいけど、教会や各地の集会所で行われている礼拝には、いろいろな悩みをかかえた人たちが集まってくる。極論だけど、売春によってしか生きる術をもたない女性が、罪の意識に苛まれ、最後の救いをもとめて訪れた教会で「売春は正しくない」と宣告されたらどうなるか。

「正しさとは何か」といった問いかけは、哲学者たちがやってくれている。その知見から真摯に学ぶ姿勢は大切だけど、信仰者あるいは信仰を求める者としては、つねに「一般化して語ること」を警戒しなくてはならない。それは、使い方をまちがえると、人格的な応答を不可能にする「裁きのツール」と化す。

「人格的な応答」を可能とするには、既存の理論・方法論を妄信しないこと(否定するのではなく、それぞれの有効性と限界を把握する)、つねに行為主体の内的主観性に還元して考えること(ありていにいえば、「想像力・共感力」の必要性)が必要になる。つねに、個別性における「正しさ」を論じること。

 註:もちろん、他者の内的主観を覗くことはできない。哲学的には、この「相互主観性」はかなりやっかいな問いを孕んでいる。しかし、信仰のレベルにおいては、「すべての人々の内面を知っている超越的な存在=神」という審級が前提とされているので、この相互主観性の問題はさしあたりスルーしてよい。

 目の前の他者の内的主観に還元して思考する「想像力・共感力」こそが、また、目の前の特定の他者のための言葉を語ることこそが、信仰のレベルでは大切だと思う。「一般化された正しさ」を断定するのではない、「一人ひとりの固有性における正しさ」をみつめることが、「人格的な応答」の出発点になる。