倉井の策略!?

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国防問題の現象学的考察? -理想を掲げて現実と向き合う-

今週の日曜礼拝のテーマは「国防について」。マイケル・サンデルの議論をふまえながら、志願兵制と徴兵制のそれぞれの正当性の根拠(とされる根本仮説)を確認し、その上で、聖書に基づく真の平和を打ちたてることの可能性について学びあい、また、考えさせられた。おおまかな概要について書いてみる。

聖書にみられる「敵を愛しなさい」という言葉の真意は、「敵とは、自己の内部に生起する不安の影にすぎない」ということである。だから、「外部の他者に対して敵愾心を抱くのではなく、じぶん自身の不安と向き合わなくてはならない」ということになる。この「内的主観性への還元」を軸に考察してみる。

「他者に対する敵愾心ではなく、自己の内面と向き合う」という聖書の教えに対して異論はない。しかし、そうかといって、「他国を信頼して非武装を実現し、各国と平和条約を締結した上で、徹底した情報公開と官民レベルの交流を(善意を示して)行えば、ただちに平和が実現する」とは、ぼくは考えない。

ある人が「外部の他者にたいして敵愾心を抱かず、じぶんの内なる不安と向き合おう」と内的に確信するのはいいとしても、「だから、あなたも・お前もそうしなさい」と他人に強制することはできない。各個人に独立した内面があると仮定すれば、「じぶんの理想を他者に押しつけることはできない」からだ。

「情報」の公開はできたとしても、「人の内面」を全面公開することはできない。どんなに積極的に交流しても、他者とのあいだの“わかりあえなさ”が消えることはないと思う。ある人間の内的主観から、他者の内面を覗き見ることはできない。だから、ちょっとした誤解・すれ違いによっても不安は生じうる。

もちろん、理想を棄ててはならないけど、現実的な状況のなかで考えて、もしも「非武装化することによって多くの命が失われる」という事態が起こってしまった場合に、非武装主義者は、その責任を取ることができるのだろうか。責任も取れないのに非武装を主張するのは、他者に対する配慮を欠いている。

現時点でのぼくの立場は、「現実的には防衛力を維持しつつも、憲法九条の平和主義を堅持し、将来的な核廃絶・非武装化の実現を目指して、国際的な平和貢献に寄与する」というものである。中途半端な立場だと思われるかもしれないけれど、「理想を掲げて現実と向き合う」ことが大切なのだと考えている。