倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「円盤形社会」の設計にむけて~「共存共栄」とはなにか?その1~

「共存共栄」とは、新自由主義市場原理主義が是とするような「競争社会」のアンチテーゼとして、しばしば用いられる概念です。ですが、そもそも「共存共栄」ってどんな状態なんでしょうか? もっというと、「共に-存在する」とか、「共に-栄える」って、どういった状態なんでしょうか?

先日、mixiコミュニティの議論のなかで「共存共栄」という概念についての疑義が呈されていて、「おっ、これから本質的な議論が始まるのかな?」と期待していたのですが、その後、たいして議論が深まらないまま“表層的な上すべり”に終始してしまい、ちょっとがっかりしてしまいました。

ここでは、あらためて「共存共栄」とは何か?を問い直し、市場原理主義が破綻したあとの“歴史のこれから”を生き抜くための知見を、みんなでみがきあげることを目指します。


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さて、mixiコミュニティでの議論では、「共存共栄」というコトバの意味内容について、「みんな差別なしに助けあうってこと」だという意見がでました。しかしいっぽうで、同時にそれは「実現したら大変なことになる」ような「全体主義」でもある、ともいわれていました。

たしかに「共存共栄」ってコトバは、なんだか共産主義に語感が似ていて、「全体主義」という誤解が生まれるのもしかたないと思います。

それについては、国民新党顧問・亀井久興先生の「円盤形社会」ということばを参照させていただくと有意義かなと思いますので、第171回国会予算委員会から久興先生のお話を引用させていただきます。



 私はよく円盤形社会という言葉を使うんです。戦前のピラミッド構造が、底辺がずっと持ち上がってきて、押しつぶされたひし形みたいになって、それがもっと薄くなってくると円盤のような姿になる。その中心部分の厚みは私はあっていいと思うんです、これがなければ競争力は出てきませんから。中心部分の厚みをどうするかということはいろいろな議論がある。

 だけれども、全体の形、姿形を変える必要はないというように思っておりまして、だから、まさに一億総中流社会というのは世界に誇るべき姿形だ。しかも、それで日本の経済が大きくなっていないんなら別ですけれども、どんどんそれで成長をして、今でもまだ世界で第二番目の経済規模を持っているということですね。ですから、私は、それを変える必要はないと。



ここで久興先生が提示なさっている「円盤形社会」というのが、ありうべき共存共栄のモデルであると思います。

とりわけ、「その(注:円盤の)中心部分の厚みは私はあっていいと思うんです、これがなければ競争力は出てきませんから」と言及しているところがカギかなと思います。

そういう「厚み」をまったくなくして、格差のない平等社会を人工的につくり出そうとしたのが、かつての共産主義体制です。(※とはいえ、キューバなどの稀有な例を除けば、ほとんどの“共産主義”国家には「赤い貴族」と呼ばれる特権階級が存在しました。「プロレタリア独裁」が情熱をうしなって“支配階級=ブルジョア化”しちゃうわけですね、わかりますw)。

日本社会は、資本主義国家でありながら、競争一辺倒の市場原理主義ではない、社会民主主義的な「全体の形、姿形」(=構造)を持っていたということになります。「一億総中流社会というのは世界に誇るべき姿形だ」という久興先生のことばのとおり、二十一世紀という危機の時代を生き抜くためには、戦後の高度経済成長を支えた円盤形社会について、きちんと研究してみる必要があると思います。

(つづく)