倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

あなたと手紙の存在論 ~文学者の政治的責任、ならびに政治家の文学的責任~

文通って素敵だなーと思ったりした。mixiのクリスチャン・コミュニティで「文通をとおして、神さまのことを教えてほしい」という書き込みを読んでのことである。

あの方に、素敵な出会いがありますように。

ぼく自身、文通をした経験はほとんどない(まったくないわけじゃないよwww)けれど、現前しているわけではない「他者」に対して、自己のコトバを表象=代弁してくれる「手紙」って面白いなーと考えていた。

それをつきつめて考えれば、「自己と他者」、いま・ここでいえば、「ぼくとあなた」をつないでいる“コトバ”についての深い洞察を得られるのではないかと思えるからだ。

人間のもちいるコトバは、とっても浅はかで、とっても断片的で、心のうちをすべて翻訳することはできない。気持ちが上手く伝わらなくて、もどかしい思いをしたり、傷ついてしまうこともしばしばある。

しかし、そうやって気持ちを他者に伝えようとする“行為と意志”は、どこからくるのか。「伝わる、伝わらない」はともかくとして、「他者と関わりたい、気持ちを伝えたい、愛しあいたい」という欲求は、いったいどこからくるのだろうか。

そう考えたとき、「もしも、自己と他者とをひとしく見つめてくださっている第三項、すなわち、神さまのまなざし、神さまのみことば、神さまの愛があるとすれば、」と仮構せざるをえなくなった。すくなくとも、論理的にはね。

 ・・・

さて、話は変わるが、ぼくは数年前から「郵便制度」のありかたに大きな関心を持っている。具体的に云うと、2005年の郵政選挙のころ、その民営化の是非が問われていたときのことである。

ぼくが郵政民営化に関心を寄せた“そもそもの動機”は、「郵便制度」の発展が近代日本に及ぼした影響、特に「言文一致運動」との関連においてである。

と云っても、さいしょは「郵便制度なんて、些末な問題にすぎない」と思っていたところがあって、「郵政民営化は、構造改革の本丸だ。」などと力説してみせる小泉純一郎の演技ヅラを嘲笑こそしたものの、「民営化しようが、されまいが、じぶんには関係ない」と思っていた。

しかし、そのとき郵政民営化に反対していたある一人の政治家のコトバが、ぼくの認識をおおきく変えた。その政治家は、たしかこんなことを言っていた。

「じぶんは今回の郵政民営化法案には反対だ。しかし、国民のために健全なサービスを提供しようとする民営化のそもそもの動機、目的について反対しているわけではない。じぶんがいま、今回の民営化法案に反対しているのは、前島密らが明治時代に築き上げた郵便制度のありかたに対する深い認識、そうした国民的議論がまったくなされていないからだ。」

ぼくはこのコトバをきいたとき、「そうか、いまの日本にも、政治をたんなる政局ではなく、“文学的問題”として語ってくれる政治家がいるのか」と、いたく感心したのを覚えている。

亀井氏は無任所相 国民新党が要請へ 9月9日7時57分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090909-00000084-san-pol

国民新党は8日、民主党側から亀井静香代表に対し入閣要請があれば、亀井氏を所管省庁を持たない無任所相へ起用するよう求める検討に入った。亀井氏が党首クラスの「基本政策閣僚委員会」に出ることや、来夏の参院選に向け、党代表の役割を果たす狙いがあるものとみられる。》

期待と不安を抱えつつ、やっぱり期待しています。現代日本アンドレ・マルロー。

郵便制度の改革は必要だろうし、現代社会、また、現代の国民のためにふさわしいサービスをつねに模索しつづけてほしいとおもう。インターネットの普及をみた現在の言語状況は、「飛脚から、郵便へ」という明治の御一新のとき以上の“大変革”(おおげさに云うならば、ぼくたちの「認識」に“地滑り”を起こしてしまうような、言語論的な転回)をもたらしているのかもしれないからである。

すでにインターネットの世界には、ほんらいは中枢にのぼらないような少数意見(マイノリティ言説)や、いわゆる「荒らし」と呼ばれるような“字義どおりのアナーキズム”が現前するという“直接民主制”のシステムができあがってしまっている。“光”と“影”の両面があるとはいえ、そうした状況を受け止める必要はきっとある。

そうした言語状況のなかで、あえて「代議制」(=間接民主制)を採用することの意義、あえて「郵便」をえらぶことの意味を多くの方に考えていてほしいし、ぼく自身、ずっと考えていきたいと思う。「文学者の政治的責任」というものは、(福田恒存は、その命題を「ジャーナリスティクな課題のだしよう」であるとして異を唱えていたけど)やはり「あるだろう」と思っているからである。それと同時に、やはり「政治家の文学的責任」というものもあるはずである。彼らがやはり、コトバをもちいるかぎり。