倉井の策略!?

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《言語論的転回》以降の伝道と教会のありかた(2)



6 2008年11月23日 23:57
kamuya with t

トピ主さんの書き込み内容は、「チャット伝導」、それも「ヤフーチャット」という限られた射程に於いての、「クリスチャンとしてあるべき姿」を考察なさったものであると云えますね。その限定された射程の範囲で云えば、“貴重な証言”としての価値は充分にあると思います。 

以下の僕の書き込みは、「ヤフーチャット」における「チャット伝導」がどういうものか知らない人間の一考察にすぎないということをご理解の上、お読みいただければと思います。 

僕は、「IT時代」というパラダイム設定を必ずしも前提にしてはいないのですが、ここで一つの仮説として、《インターネットを媒介とする言説=生身の身体という情報が隠蔽された、コトバによるコミュニケーションの空間》と解釈しても、「福音伝道も教会の在り方も大きく変化して」いるように見えるのは、畢竟は“地上の論理”に於いての話にすぎないと思います。何故と云うに、我々はすでに主イェス・キリストの時代から、コトバに生きることを定めとしていたからです。伝達の媒体としていかなる「形式」(教会、聖書、インターネット、etc・・・)が採用されたとしても、そのことが“信仰の本質”に根本的な相違を齎すことはないと思います。 

従って、僕は、必ずしも「IT時代における福音伝道」や「教会の在り方」といったトピ主さんの問題意識を共有していません。以上の点を確認した上で、以下に私論を述べさせていただきます。 

>いったい、何が他のインターネット礼拝や伝導と違うのか。 
>まず双方向性を生かした伝導であった点があると思います。 

先日、両国のエデン教会にて行なわれたクリスマス集会のなかで、或る無教会の講師さんが「対話的人格」というコトバを提起していました。これは、おそらく内村鑑三の著作やカール・バルトの神学に基づいているのではないかと思いますが、ここでいう「対話的」とは“神と人との対話”のことです。そして、“神との対話”を認識しうる人は、自己の未完成さに自覚的となることができ、その結果、“人と人とのコミュニケーション”に於いても、対話的に開かれたスタンスを保ちつづけることができるというものです。これは、トピ主さんのお書きになった「双方向的福音伝導」というコトバと共鳴するものではないでしょうか。 

匿名性に関して云えば、僕はいくぶん否定的に見ています。なぜならそれは、「牧師の氏名は開示されているにもかかわらず、信徒の個人情報は隠蔽されている」という、“一方的な言語伝達”にすぎないのではないか、という疑問が生じるからです。 

安易に「形式主義」/「実質主義」という二項対立図式を立てることについても異論がありますが、少なくとも、トピ主さんが「形式主義からの批判」とされているものに関して云えば、それは「実質主義」とされる神学(?)に対する見当違いな批判でしかないということはあきらかです。しかしながら、それを以って「形式的なものへの過度の依存」からは「そのクリスチャン部屋にこそイエスが宿っているという実質に達することができな」いとするような狭隘な結論を導き出してしまうことや、「既存のクリスチャン部屋は消滅し、Qちゃん部屋に集約させること」によって「初めてクリスチャン部屋に神様が宿っているという実質主義に(ママ)下で「証」「癒し」「祈り」という当然のことはなされるようになった」とするトピ主さんの“終末論的歴史観” には賛同できません。本質的に重要なのは、そのような「形式」/「実質」といった二項対立を止揚して、いかに建設的な議論あるいは伝導を可能とするのか、という、まさに双方向的な問いを立てるところにあるのではないでしょうか。 

>なぜクリスチャン部屋で「証」「祈り」などがなかったのか、 
ウォルフガング・イーザーに依拠するならば、あらゆる言語行為は行為遂行的であり、その遂行過程に於いて対話(=双方向)的性質を帯びています。従って、「Qちゃん到来」以前の言説に「証」「祈り」がなかったと断定することはできないと思います。なぜなら、 

>初期Qちゃん部屋の「荒らし」は後の信仰者の基礎形成期にあたると思われる。 
この一文が傍証となっているように、ある視点(=立場)からは「一方向的なもの」としか思われない言説でさえ、主体の解釈行為によって、「双方向」的なものとして捉え直すことが可能だからです。 

「IT時代の伝導・教会」というトピ主さんの問題提起を換骨奪胎して、「言語論的転回以降の伝導・教会」とでも云うべき問題を再設定するかたちで述べさせていただきました。なお、僕は「みことばに生きる」ということの意味を“言語論的に認識する”ことであると定義している一介の文学徒にすぎません。もしも上記の僕の批判が「一方向的」で“見当ハズレ”なものと受け止められたとすれば、謝罪させていただきます。