倉井の策略!?

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理論、知見、学問の可謬性-方法論的多元主義の理論的背景-

前回は、現在の学問状況がかかえている問題として、「専門主義の陥穽」を採り上げてみました。具体的には実証主義の限界点について見てみましたが、もちろん現在の学問界には、記号論やポストコロニアリズム、カルチュラルスタディーズといった多種多様な方法論が雑居しています。

実証主義だけに限らず、あらゆる理論(=方法論)には有効性と限界があります。たとえば、ハサミとナイフとコギリがあったとして、それらのいずれがもっとも優れているかは、用途によって異なります。「木を切る」ならノコギリがいちばん便利でしょうし、「肉を切る」ならナイフでしょう。紙を切るならハサミがいちばんです。

このように、日常生活では「当たり前」にわかるはずのことが、学問界ではわからなくなって、やれ「ハサミこそが正しい」だの、やれ「ノコギリは間違っている」だの、「脚立なんて現前の形而上学にすぎない」だの、喧々囂々言うわけです。

これからの学問は、偏狭な一元主義でもなく、ナンデモアリの相対主義でもない、方法論的多元主義を目指すべきだと思います。そのために、今回はまず個々の理論の可謬性について書いてみたいと思います。と、ここで突然ですが、このブログに書き込まれたあるコメントを引用させていただきましょう。


ところでkamuya氏は、なぜ日ユ同祖論が正しいと思ったんですか?
2008/9/22(月) 午後 4:07 [ Y ]


びっくりさせてすんません(笑)。これは、ある作家さんのブログに書きつけられたかきっぱなしの批判コメントに対して、僕が「釣り」のつもりで書き込んだものに対応しています。じつはこのYさんという人は、2年前からそのブログにいらしている方です(・・・と、お名前から勝手に判断してます)。今後の議論は、Yさんとの対話によって織り成されていくことになります。それでは、僕の返答から引用します。


おひさしぶりです。

いえ、実際のところ「正しい」とは思ってないんですよ(笑)。というより、それは実証不可能な「仮説」にすぎないと思います。なぜなら僕という主体そのものが、二十一世紀という時間に存在論的に内属している以上、歴史を外部(客観的視点)から概観することは僕自身にも不可能だからです。竹田さんのブログにコメントした、《いかに実証主義的に考証された歴史観でさえ、それはひっきょう「解釈」のひとつにすぎず、客観的事実であるという保証はない》という前提と《日ユ同祖論は歴史的事実です》という言明とのあいだに果たしてどのような整合性があるのか?という記述は、そういう意味なんです。
2008/9/22(月) 午後 4:21 [ kamuya ]

僕は、「事実」とか「常識」というコトバと、「真実」とか「正しい」というコトバを意図的にわけて考えています。

前者は、基本的には「パラダイム」と同義です。後世からみれば一笑に付されるような俗説でさえ、一世を風靡しているあいだは「事実」と看做され、「常識」となります。それは、「真実」かどうか、とか「正しい」かどうか、とは本質的に無関係な現象です。

これは予言めいてしまいますが、日ユ同祖論は、二十二世紀には確実に「常識」になると思いますよ。客観的に正しいかどうかはともかくとして。逆にいえば、遺伝子至上主義的な科学主義パラダイムは、もう少しすると下火になっていくかもしれません。「遺伝子が生命の形質を決定している」という仮説については、池田清彦先生が構造主義科学論の立場から異論を呈しています。ぜひ読んでみて下さい。
2008/9/22(月) 午後 4:34 [ kamuya ]


人間は、誰にせよ歴史的時間のどこか、社会的空間のどこかに内属しています。それらの立場を遊離して、世界の全体情勢を俯瞰してみることなどは、(信仰者はともかくとして)不可能なことです。そのため、特定の誰かの視点が絶対的に正しい(=世界のどこに行っても通用する)ということは、ほぼゼッタイにないと言ってよいと思います。このように、「いかなる理論や知識もまちがっている可能性を原理的に排除できない」という考え方を「可謬主義」といいます。

なお、ここで僕が「事実」「常識」と「真実」「正しい」を分けていることに注目してください。上記の引用において、僕は前者のことを「パラダイムと同義」だと書きました。これは要するに、「あらゆる知見は、誤りうる人間の営為が積み重ねられたものであって、それが真実であるとはいえない」ということです。たとえば、1930年代には科学の世界で人種主義が「常識」であるかのように唱えられていましたが、それが「真実」からどれほど遠いものであったのかは、ナチスドイツのホロコーストや日本の自民族中心主義からも明らかだと思います。もちろん、人種論自体の有効性も認めますが、それが行き過ぎると誤りに転じます。これは、あらゆる学問、知見、理論にあてはまります。あんまり敵を作りたくはありませんが、あえて言うなら「極論は諸学の敵」なのです。

可誤主義については、さしあたり以上で充分だと思っています。ただ、議論の流れの関係上、つづきの議論も引用しておきましょう。


kamuyaさんは、何か新興宗教でも信仰されているのですか?
2008/9/22(月) 午後 8:12 [ himiko ]

信仰心はありますが、宗教には帰依していません。
2008/9/22(月) 午後 9:21 [ kamuya ]


どうでもいい余談ですが、僕の主張は「狂信的な信仰者に甘い」と言われることがあります。ま、これはまあ、これでいいでしょう。


>>なぜ日ユ同祖論が正しいと思ったんですか?
>いえ、実際のところ「正しい」とは思ってないんですよ(笑)。
>というより、それは実証不可能な「仮説」にすぎないと思います。

kamuya氏は「正しい」という言葉を誤解していますね。

実証不可能=正しいと確認できない、であって
正しいと思えない、ではないですよ。

あなたは、実証不可能だと思いつつ、やはり
正しいと思っているのでしょう?

それはいかなる理由ですか?という問いです。
2008/9/23(火) 午後 2:56 [ Y ]

>日ユ同祖論は、二十二世紀には確実に「常識」になると思いますよ。

ところで、なぜ「二十二世紀」なのでしょう?

要するにその頃には今生きてる人は皆死んでいるから
確認できないと暗にいいたいのでしょうか?

>遺伝子至上主義的な科学主義パラダイムは、
>もう少しすると下火になっていくかもしれません。

科学は、人間の欲の表れなので、人間が存在する限りはなくならないでしょう。

われわれは過去を飾るウソよりも、未来を実現できるホントウを望んでいるんですよ。

>「遺伝子が生命の形質を決定している」という仮説については、池田清彦先生が構造主義科学論の立場から異論を呈しています。

池田清彦も、遺伝子そのものを全面否定することは出来ないでしょう。
また彼の構造主義科学論は残念ながら生物学においてはあまり有用ではない。
今のところ彼自身の懐具合に貢献しているのが真実でしょう。
2008/9/23(火) 午後 3:05 [ Y ]

ところで、ある人に
「日ユ同祖論は、二十二世紀には確実に「常識」になる、といってる人がいるんだが」
といったら
「ん?そんなこと今でも常識だろ。日本人だろうがユダヤ人だろうが、人類の祖先はもとをたどればアフリカに行き着くぞ」
と返された。

ああ、そういう意味か。
じゃ日韓中印欧米ユダヤアラブ同祖論といってほしかったなw
2008/9/23(火) 午後 3:12 [ Y ]

>じゃ日韓中印欧米ユダヤアラブ同祖論といってほしかったなw
賛成です(笑)。じっさいのところ、「人種」とか「民族」とか「国民」とかいう諸々の区分は、本質的には明確な根拠をもたない歴史的産物だと思うんですよ。まあ、そうかといって、それらを一概に否定するつもりもないんですけどね。(おそらく人間は、そうした「仮説」に依拠しないと生きていけない脆弱な生き物なのでしょう。「考える葦」とはよく言ったものです)。

はっきり言っておけば、巷間に流布しているような意味での日ユ同祖論は迷信でしょうし、今後そうした言説が盛り返してくることはないでしょう。(今後、日本がユダヤ人の共同体と緊密化すればわかりませんが)。二十二世紀というのはかなりテキトーな予測です。まあ、人種とか民族とか国民意識だとかいう二十世紀的な幻想が、少なくとも次世紀までにはいいカタチで揚棄されていればいいなぁ、という個人的な願望がこめられています。
2008/9/23(火) 午後 3:37 [ kamuya ]

ぶっちゃけた話、「竹田さんのブログでかなり言いっぱなしのコメントがあったので、条件反射的に書いちゃった」というのが実際のところで、これ以上つっついても何も出ないと思います(笑)。すいませんm(._.)m
2008/9/23(火) 午後 3:38 [ kamuya ]

>科学は、人間の欲の表れなので、人間が存在する限りはなくならないでしょう。
すみません、確実に誤読されるなぁと思っていたところです。。。

僕が云わんとしたのは、あくまで「遺伝子至上主義的な科学主義パラダイム」が「下火になっていく」ということであって、「科学主義」そのものがなくなるということではありません。そして、遺伝子研究そのものの有効性を否定するつもりもないんです。ただ、「遺伝子が生命の進化をつかさどる本質概念」であるかの如き風潮は、すこしく言い過ぎの観があるということです。

構造主義科学論は、第三の科学論として近年にわかに注目を集めています。ウェゲナーの大陸移動説でさえ、発表当時には一笑に付されて終わりましたが、現在では通説となりえていますように、池田先生の理論にかんする(学術論文その他の媒体による)本格的な検証は、2005年あたりを起点として本格化しています。僕は注目していますよ。
2008/9/23(火) 午後 3:52 [ kamuya ]

>Yさんみてます??

見てますよ。

構造主義科学論は、第三の科学論として近年にわかに注目を集めています。

「科学論」者の間でね。彼らは科学者からは「コメンテーター」と呼ばれているw

>ウェゲナーの大陸移動説でさえ、発表当時には一笑に付されて終わりましたが、現在では通説となりえていますように、

一笑に付された理論の大半は、やっぱり一笑されたままだったりする。

>池田先生の理論にかんする(学術論文その他の媒体による)本格的な検証は、2005年あたりを起点として本格化しています。

はぁ、そうですか。どうぞご随意に。
2008/9/23(火) 午後 5:43 [ Y ]

>見てますよ。
あの文章を書いたひとに見られたらたいへんなので、さきほどの書き込みは消しました。あのように、科学のレトリックを自身の信念補強に用いることは、なんら科学的ではない「妄信」です。ともあれ、そんなことを直接云うわけにもいかないので苦労してます。。

今回はこのあたりにします。上記の議論に「池田清彦」、「構造主義科学論」というなまえが登場しました。はてさて、いったいどんな人、あるいはどんな理論なのでしょう。次回をおたのしみに!