倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

専門主義の陥穽-実証主義の限界点-

これから数回にわたって、現在の学問状況が抱える陥穽と、それを克服しうる理路について書いていきたいと思います。「書いていきたい」とは云っても、じつはもうすでに書いてあります。この一ヶ月ほど、僕のブログのある旧記事コメント欄にて取り交わされた内容が、これからの記事の“草稿”となっています。

議論の内容を忠実に再現するため、削除や修正は極力避けることにしました。そのため、場合によっては意味の通りづらいところがあるかもしれません。その場合は、どうか読者のみなさんの想像力によって、仮説生成(=解釈)していただければさいわいです。

そもそもの議論の発端は、次のような書き込みから始まりました。

古代天皇家が、記紀の編纂にあたって隠したかったこと。それは、大和王家の正当な祭祀の継承権についてである。単刀直入に言うと、ニニギ命の後胤である神武皇統は、政治的には最高権力者ではあっても、この大和王朝の正当な祭祀権を必ずしも保有しつづけてはいなかった。

延喜式や古代の文献のほぼ全部が、高天原大和国葛城であり、ニニギ命は、高天原(葛城)から高千穂(日向)へ派遣されたと記載されている。それを命じたのは誰なのか? それは、ニニギ命の兄とされる火明命で、彼は通称・天照国照彦(天津と国津の両方の支配者、高天原とそれ以外の全ての支配者)とよばれた。彼の正妻は天道日女命(出雲・大国主命の王女)である。(国宝海部氏系図旧事本紀などを参照) そして、出雲国譲りとは、出雲・大国主が、自分の娘の夫である大和・火明命に、出雲の支配版図を譲渡することにより、大和による天下統一が達成された出来事なのである。(播磨国風土記参照) よって、日本国皇帝としての大和王家の正統な祭祀権は、この火明命と天道日女命の間に出来た香語山命の男系子孫に継承されていたはずである。
2008/9/20(土) 午後 7:56 [ himiko ]

これは、記紀神話と皇室の起源に関係する書き込みです。じつは、このhimikoさんという方は、ある保守派の作家さんのブログに歴史学的なコメントを精力的に書き込んで下さっていた人です。

これに対する僕の返答が、以下のようになります。

himikoさん、コメントありがとうございます。

歴史学の方法論のひとつとして、あなたの採用されている“実証主義的アプローチ"に意義があることは論を俟ちません。しかしそうかといって、実証主義という方法論が「絶対性に正しい」ということにはならないと思います。というのも実証主義は、客観的な外部実在を前提とする実在論に依拠していますが、神ならぬ我々人間にとって、歴史を外部(客観的視点)から概観することは不可能だからです。むろん、実証主義を否定するつもりはまったくありませんが、単一の方法論をアプリオリに正しいとする前提からは、新しい知を生みだすことはできないということだけはたしかです。
2008/9/22(月) 午前 3:07 [ kamuya ]

「客観的な外部実在の仮定」という原理的不可能性の上に立つ実証主義が有効に機能しうるにはどうすればよいか。という問いが生起すると思いますが、これに関しては、実証主義を「方法概念」として定式化すれば解決します。

上述したように、実在論(外部実在を前提とする認識論)は、根本に於いて「仮説」です。あなたはこの「仮説」に立って、異なる「仮説」に依拠している(本居宣長以降の)国学研究を否定しているわけですが、あなた自身の言明も根本仮説に依拠している限り、双方の主張の正当性については「おあいこ」です。

認識論すらも「仮説」とするメタ認識論的な地平に立てば、異なる信念を持つ人同士が互いの主張を認め合う「認識論的多元主義」および「方法論的多元主義」を担保できることが可能となります。
2008/9/22(月) 午前 3:21 [ kamuya ]

もちろん、認識論および方法論的な多元主義が担保されたからといって「どんなデータを根拠にしてもいいし、どんな主張をしてもいい」ということにはなりません。“ナンデモアリの相対主義"を結論とするポストモダニズムという(外部実在を前提としない)認識論すら、アプリオリに正しいとはいえないからです。

実証主義を「アプリオリな真理」として信奉するのではなく、あくまで歴史を知るための「ツール(道具;すなわち方法論)のひとつ」として再定義することができたならば、実証主義がもつ認識論的な限界を解消しつつ、異なる認識論との建設的な議論へと開かれたものへと変えていくことが可能です。
2008/9/22(月) 午前 3:34 [ kamuya ]


いま考えると少々先走りすぎている気がするのですが、ここで僕が述べようとしたのは、歴史学における実証主義の陥穽についてです、実証主義という方法論は、客観的な外部実在を前提とする実在論に依拠しています。ざっくりと要約すれば,【方法論】が有効に機能するのは、その方法論が前提としている【認識論】の範疇においてです。従って、異なる認識論に依拠する仮説と擦り合わせをしようとすると、場合によっては対立を喚起してしまう場合があります。こうした事態のことを、構造構成主義では【信念対立】と呼びます。予想通り、僕の書き込みは(オーディオ再生機器がMIDIデータを認識できないように)、himikoさんには通じなかったようです。


高天原が葛城ってのは、日本の古い文献でもそうですし、京都朝廷の公式見解だった。延喜式でも高天原が葛城になっている。でも、江戸時代から、京都朝廷が記紀研究が民間に開放され、新井白石本居宣長などが色んな説を提示した。日本各地に高天原の伝承地がありますが、それがいつから出てきたのかというと、この江戸時代ぐらいのものが殆どであり、高天原伝承地の古いものは全て高天原とされている。ちなみに、明治天皇が東京へ移られる時に、葛城の高天彦神社(式内社)へ御報告されている。
2008/9/22(月) 午前 9:28 [ himiko ]

でも、新井白石などは高天原が葛城だとは素直には受け入れられなかった。そりゃ、そうだ。なぜ、わざわざ、大和の首都を、葛城から日向のような西端の遠隔地に移転させ、またまた、葛城のほうへ戻す必要があるのか?と。記紀を読んでみると、そのへんの謎が残り、どうしても、民間の研究者たちは大混乱したのである。で、新井白石は、丹波国造だった海部氏の系図の存在を知り、それを見せてくれるように頼んでいる。(が、結局は拒否された。)しかし、これは第二次世界大戦後、海部氏の当主が世間に開放する。そこには、記紀に書いてあった不可思議な内容をとくパーツがいくつもあった。
2008/9/22(月) 午前 9:35 [ himiko ]

記紀などに書いてある系図には、神から人まで様々な名称が記載されているが、その名称にも謎を解くヒントがいくつもある。また、記紀ではなく、風土記延喜式などにも謎を解くヒントがいくつもある。
天武天皇古事記を編纂したりした晩年、もっとも揉めていた一族は熱田の尾張氏だということが分かってい。草薙の剣を所有に関しても尾張氏と揉めまくっている。尾張氏とは、この火明命の嫡流の子孫である。
2008/9/22(月) 午前 9:40 [ himiko ]


ここで、kamuyaはちょっぴりイタズラを仕掛けます。実証主義に基づいているhimikoさんを、いわば認識論的にゆさぶってみる作戦です。性格わるいですねー。しかもそれをこうやって記事にしているあたり、性悪の真骨頂と云う感じもします。だけどこれも、学知の発展上欠くべからざる方法です。←ほんとか。まあ、つづきを見てみましょう。


高天原が葛城ってのは、日本の古い文献でもそうですし、京都朝廷の公式見解だった。延喜式でも高天原が葛城になっている

それは、たしかに「事実」である可能性が高い「仮説」ではあります。しかしけっきょくのところ、それを「実証」することは不可能です。有力な「解釈」のひとつとしては否定できませんけれども。

あなた自身は二十一世紀に生きている人間であり、歴史の(客観的な)外部に我々人間の立てる場所はない以上、古代の事実を実証しようとするあなたのスタンスは根本的な背理を孕んでいます。
2008/9/22(月) 午後 3:48 [ kamuya ]

あなたの見解は、ひっきょう“実証主義”に基づくあなた自身の信念を「補強」するものでしかありません。それは、異なる認識論に基づく国学思想の「解釈」を「検証」するような理路にはなっていないのです。
2008/9/22(月) 午後 3:55 [ kamuya ]


自分でいうのも何ですが、こりゃかなりヒドいです。フツーの人だったら怒ってしまうところでしょうが、そこはhimikoさん、この後も終始落ち着いてました。建設的な議論をする上で、異なる認識論と出会ったときにも冷静さを保っていられることは、とても大切なことなのです。その意味で、僕はhimikoさんの姿勢にはすばらしいものを感じます。


さて、今回の記事はこれで終わりです。今度は、池田清彦先生によって体系化された構造主義科学論についてご紹介します。これは、異なる認識論の【共約不可能性】(わかり合えなさ)を乗り越えるための【通訳可能性】を担保しうる、メタ科学論ともいうべきものです。

今回の記事は助走ですが、次回からは何やら抽象的な議論になります。しかし、それは異なる認識論の壁を乗り越える上で、身につけておくと便利な“魔法”なのです。それではおたのしみに~