倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

新感覚的芸術論 ―主体と感覚的躍動について―

>私に対する呪いを描いている。
>私を超えたものに対する呪いを描いている。
>超えるために描いている,対決する為に描いている。

ある友人の独語より



それでは僕は「書く」ことにしよう。僕と云う「主体」を解体しうる、超越的な“感覚的躍動”を記述するために。有為の奥山(=現象世界)を今日こそ越えて、表層的な“夢”にすぎない現実を、突き崩してしまうために。

あらゆる人間は、歴史/世界と云う言語的な時空間に生まれ落ちる。その意味に於いて、主体は言語に内属している。しかし同時に、他者としての言語を引用し、自己自身の解釈を織り成してゆく行為のうちに、主体は言語から疎隔される。内属と疎隔。人の生き死には、まさにこの境界にこそ浮き上がり、且つ消えゆくものであろう。

言語的な力動性にその身を「没入」することは、宇宙の構造的力動性において「再生」することを目指すことでもある。「今在るモノは全て、宇宙開闢時に生成された原子の[子孫]である」と仮説するならば、「宇宙開闢」から「現在」そして「最期の審判」までの時間軸を貫く構造力動性は普遍である。「みことばのとおりに」、信仰者たちが唱えるコトバは、この意味に於いて清められるべきであろう。そのためには、コトバと云う[壁]に閉ざされた向こう、世界の本質構造を見定めるための、真正なる“信仰的態度”を養う必要があるだろう。そして、その地平にこそ、「神」は再臨し給うであろう。

>なにもかもをぶつける,命を差し出すために。
言語活動に定位すれば、それは言語に胚胎する「還元不可能な複数性」に命を差し出すことである。色は匂へど 散りぬるを、我が世 誰ぞ常ならむ。すべてを壊す力が欲しい。自分自身を打ち壊すために。道徳もなく倫理もない、信仰さえも失われた時代に、“救い”の灯火は消えないように。