倉井の策略!?

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地球寒冷化と「新冷戦」-偏在化する暴力の時代へ向けて-

mixiニュースでこんな記事をみた。


■ロシア強硬姿勢「新冷戦」の危機…グルジア紛争
(読売新聞 - 08月28日 02:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=590328&media_id=20

何とも、おっかない見出しである。とはいえ、今度の冷戦がかつてのような二極対立の構造を採ることはありえないので、あえて釣られてみせる必要もなかろう。(だけど、この記事は比較的よく書けてるほうだと思う。中堅以上の記者さんだろうか。ときどきmixiニュースでトンデモナイ暴論に出くわすが、そういうのはたいていどっかの院生が小遣い稼ぎに書いてる場合が多い)。さて、その内容を見てみよう。

 >さらにロシアの強硬姿勢を可能にしているのは、
 >冷戦後の国際社会が、
 >独立を望む少数民族の扱いに関するルールを
 >いまだに確立していないという事情だ。

 >90年代初頭のソ連崩壊と冷戦終結は、
 >西側の自由民主義体制の強靱(きょうじん)さと、
 >共産主義体制のもろさを証明した。
 >冷戦後、欧州連合(EU)やNATOが東欧諸国を加盟させ、
 >自由民主主義圏が東方に拡大してきた。

自由民主義体制が強靭なのは、それが非常に柔軟な構造に出来上がっているからだ。“うどの大木”の喩えではないが、共産主義体制が失墜したのは、その理論的完成度の高さゆえの“硬直化”が原因だった。「人間は理詰めで動いてはいない」という初歩的な原理が、極端な人工主義による計画経済を食い破ったのである。

とはいえ、共産主義が標榜した「平等」という理念は誤っていたわけではなく、日本や北欧諸国のような一部の資本主義体制においては、自由主義格差是正を柔軟に接合した「福祉国家体制」が出現するに至った。1968年の世界同時革命は、実体論的には失敗に終わったとはいえ、資本主義国家の内部に質的な構造転換を齎したという意味では成功したといってもよい。むろん、それらの福祉国家体制はアメリカやNATOによる“核の傘”がなければ容易に消滅しうるという点ではソ連主導による共産主義のモデルケースであったキューバと変わるところがないが、米ソの二項対立が消滅した時代の鍵を握っていたのはこうした“第三の道”を体現していた国ではないかと思う。蓋し、それは「自由」と「平等」を止揚する「博愛」の精神の表出である、というのが手前勝手な私見である。

昭和三十年に制定された自由民主党の旧綱領では、「福祉国家の完成」という言葉がはっきりと明文化されていた。
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/rittou/index.html

しかるに、小泉鈍一郎(いや、正しくは橋本政権以来)に端を発する新自由主義改革路線は、こうした柔軟かつバランスの取れた構造を破壊し、市場原理主義に基づく極端な方向へと舵を切った。それは、たとえばホリエモンのような愚民が(一時的ではあれ)持てはやされる社会である。かつては「士農工商」といい、“金銭稼ぎ”は卑しいものとされていたはずである。(言っとくが「士農工商」は“身分差別”ではない。商人の中にも有徳な“士”はいるだろう)。そうした中で自由民主党は「結党五〇年」を迎え、高邁な旧綱領のかわりに官僚の稚拙な作文が「21世紀の新綱領」として制定された。

もはや何を言ってるかわからない自眠党の新綱領。
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/houshin/index.html

こんなものに依拠している限り、どう考えてもあの政党に未来はない。(それは何をやってるかわからない民主党もしかり)。ただ、これは日本においてもまた、米ソ冷戦に基づく55年体制自民党社会党による自由主義VS社会主義の冷戦構造)が終焉を迎えたという、好意的な契機として再解釈することもできる。問題は、今後の国際情勢がどのような国家制度(システム)を要請するか、である。おろらく、その答えは保守合同の本義に帰ることによってのみ、知られるだろう。


閑話休題(それはさておき、とルビを振れ)、本題に戻そう。

 >しかし、民族主義高揚の時代に対応する態勢を整えたロシアが
 >反攻に出た。
 >NATOやEUとの関係強化や世界貿易機関WTO)加盟といった
 >国際協調の道に背を向け、
 >旧ソ連地域での支配権再確立を優先させている。

こうした動きは、なにもロシアに限ってはいない。現在、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)といった国々の経済発展がめざましい。これらの国々が、(代替燃料ビジネスで台頭しているブラジルは別として)十九世紀以前に勢力を拡げていた旧世界帝国の後継国家たちであるという事実には注目しておくべきである。あるいはここに、旧ペルシャ帝国の末裔であるイランを含めてもよい。昨今の国際情勢は、おおよその流れとしては二十世紀以降の国民国家的枠組みの揚棄、すなわち近代主義からの脱却というベクトルを根柢に持っているといえるだろう。

記事にいう「国際協調」とは、二十世紀、さらにいえば第二次大戦後に形成された連合国主導の勢力図、つまり「国際連合のなかでの協調」という非常に狭い意味合いでしかない。国連は世界のほぼすべての国を包括するという空間性においては広い。しかし、それが二十世紀的な勢力に依拠するという意味で、時間性において狭いのだ。歴史の力動性は、あらゆる構造体制を刷新しながらうごめいていく。現在の枠組みが今後も維持されるとは思わないほうがいい。

世界各地で見られる民族主義ナショナリズムの勃興は、こうした流れの中で説明できる。ただ、近代の洗礼を受けた世界がプレモダンに回帰してしまうことなどは事実上不可能なので、こうした民族主義はおおむね歪な構造を形成する。ロシアもしかり、中国もしかり、イランもしかり。あるいは、日本とて例外ではないのかもしれない。


 ……


新冷戦で少々熱くなったが、最後に、このごろ「地球寒冷化」が現実的な問題として表面化しつつあるという点についても触れておきたい。とはいえ、「地球温暖化」という偏向した情報が流れている現在の日本にあっては、以下に書くことはお笑い種に過ぎないかもしれない。けれども5年後には確実に常識になることだろうから、いまのうちから書いておく。


先日、関東一帯で10月下旬並みの気温を観測したことはご存知のことと思う(もちろんここ数日は気温が上がってきているが、それにしても八月というには涼しい日が多い)が、じつは2007年以降、地球規模での観測データにおいても気温変動が低下に転じたことが指摘されている。

地球寒冷化は、科学者のあいだではほとんど常識になっている。現代は氷河期のなかの比較的暖かい時期(間氷期)に位置しており、短期的に温暖化することはあっても、長期的には再び氷河期に突入する。しかし、政治経済が先行する新自由主義の日本においては、エコロジー(環境)政策をエコノミー(経済)政策と一体化させた温暖化ビジネスが幅を利かせているため、「地球は温暖化する」という冗談にもならない俗説が蔓延している。

2004年、ローランド・エメリッヒ監督の映画『デイ・アフター・トゥモロー』が公開された。気候変動によって地球の北半球が氷河に包まれるというストーリーである。日本語版ではday after tomorrowの楽曲がエンディングに使われていたから、当時はすこし話題になった気がする。

劇中、明らかにアル・ゴアを暗喩するようなアメリカ副大統領が、寒冷化を危険視する主人公の科学者にいう。

 「きみの気候モデルなど、そんなものは仮説だ。」

これは、自分の意見が客観的に正しいと思い込み、他者の意見を排除する、近代合理主義ないし客観主義の論理である。現実世界においても、アル・ゴアは自身の権力によって、寒冷化に警鐘を鳴らす科学者たちの研究費を停止することによって自身の“仮説”をごり押ししてきた。人間の考えることはすべて「仮説」である。異なる意見を「仮説だ」として退けるならば、そいつの意見も「仮説だ」として退けるしかない。問題は、いずれの「仮説」が実際の「現象」を説明する上で信憑性が高いか、である。(客観性など存在しない。それは神の領域だ)。

温暖化など、団扇でもあおいでしのげばすむ話である。人は暑さで死ぬということはあまりない。統計的にみても、熱中症で死ぬ人より寒波で凍死する人のほうが圧倒的に多いのだ。アメリカはそのためにイラクの石油を欲した。国土の大半を氷河に覆われているロシアは、アネクメーネ(非居住地域)の拡大を前にあせっている。地球寒冷化という事実は、人類の存亡にかかわる重大かつ切実な問題なのである。であるというのに、日本は洞爺湖サミットで莫大な税金を無駄に使ったりしている。各国の首脳はすでに寒冷化の事実を知っているから、いい加減な口約束しかしない。国益などという損得勘定を口にするのもはばかられるが、あえて言うなら、損をするのは騙された日本人である。


来るべき地球寒冷化の時代へ向けて、新たなる冷戦は偏在する暴力(テロル)への恐怖というカタチで実体化するだろう。気候変動という全体情勢の変化は、国家という構造体制を刷新しつつ進行する。こうした歴史の力動性のなかで、日本は確固たる地位を占めることができるのか。そんなことどうでもいいというのが個人的な感想だが、もし、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれた時代を誇りに思う人がいるなら、そして、かつてアメリカ帝国主義に一矢を報いたことを誇りに思う人がいるなら、これからの時代を直視してほしい。官僚の作文にカネがつくような時代は、いい加減おわりにすべきである。


新たなる時代、――信仰もなく、倫理もない、道徳すらも失われた時代に、「救い」の灯火は残るように。何もかもが凍て果てる時代に、人類が浅はかな知恵ではなく、歴史の叡智を糧として生き続けますように。


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