倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

認識線を越えられない-修士論文中間発表会を終えて-

「ですます体」で書くのか、「だである体」で書くのかで小一時間迷ったあげく、「だである体」で書くことにする。PCの向こう側の読み手を念頭に置くのはむずかしい。

修士論文の中間発表会が昨日終わった。

まず、自分自身の感想として、「バタバタだった」というのが正直な感想である。僕の準備が遅れたのもあるのだが、ここ数日は先生方や博士課程の先輩諸氏に発表会の日程その他の電話&メールを送りまくりで、自分の発表準備など満足にできる余裕がなかった。

時間的な事情とともに、「発表という小さな枠でどれだけ自分の研究内容を伝えるか」という問題もあった。発表時間20分、原稿用紙30枚程度のレジュメでは、250枚を超える修士論文全体の要旨を示すにはあまりに少なく、仮説生成(=解釈)のおおまかな枠組みを提示するにとどまった気がする。発表後、博士課程の先輩から「1930年代当時の上海における列強諸国と日本と中国人の関係について認識が浅いのではないか」というご指摘をいただいた。これは口頭での説明が言葉少なだったことによる誤解が原因なのだが、当時の時代情勢が複雑だったことはまちがいなく、論文化するにあたっていま一度精査しようと思った。一般に、物語は虚構世界なのだが、そこには現実の生活世界がコトバという一点を通じて絆されている。安易な記述で誰かを傷つけることがないように、植民地都市・上海を採り上げるにあたっては充分に気をつけたい。

先生方からは、上海そのものに対する価値評価が出ていないことや、方法論的関心にとらわれすぎて作品分析に踏み込めていないことなどを含め、いくつかの重要なご意見をいただいた。なかんずく、「テクスト論やポストコロニアリズムといった方法論を排除してまで構造構成主義を使うことの意義がわからない」というご意見は鋭いものだった。それに対する応答として、「その他の方法論を排除するのではなく、それらの方法論を有効に機能させながら統合していくための認識論的基礎づけを行なうのです」と答えてみたつもりなのだが、やはりうまく説明できなかった気がする。どうやら先生方のあいだでは、構造構成主義はメタ理論(=メタ認識論)としてではなく、その他の方法論と競合する理論(=方法論)のひとつだと看做されているらしい。

そのあげく、「出所の怪しい方法論より作品を読みましょう」と言われてしまった。まあ、今回の発表では作品の内在的分析が充分ではなかったので、適確な批判だとは思う。が、横光利一のテクストには、作者の認識論や言語論にかんする考察が随所に埋め込まれているがゆえに、内在的な分析だけでは読み尽くすことができないのだ。

構造構成主義は、音楽制作でいうMIDI規格のようなものだ。わからない人もいるだろうから、「国際会議における通訳のようなものだ」と言い直そう。なるほど、通訳は目立たない。たくさんの言語を駆使することのできる人からみれば、「通訳を使うことの意義がわからない」のは当然である。しかし、仮に日本、フランス、アメリカの識者が集まったとして、全員がそれら三か国の言語に精通しているかといえば、必ずしもそうではあるまい。そういうとき、もし通訳がいなかったとしたら、会議はご破算である。建設的な議論など望めるはずもない。

話題を文学研究に戻そう。仮に実証主義、テクスト論、カルチュラル・スタディーズの第一人者が集まったとして、全員がそれら三領域の方法論に精通しているかといえば、必ずしもそうではあるまい。そういうとき、もし通訳可能性を担保しうる理路が存在しなかったら、会議はご破算である。建設的な議論など望めるはずもない。

これはしょせん推測だが、たぶん、MIDI規格が出たときの音楽業界の反応も、最初はたぶん「何それ?」程度のものだったのではないかと思う。それがいまでは国際標準である。少なくとも音楽制作において、YAMAHAは世界を変えたわけだ。もっとも、いまでもMIDIのことをオーディオファイル形式のひとつだと思っている人もいるだろうから、関心のズレというのは侮れない。

とはいえ、こうやって質疑応答の内容を咀嚼するだけで、「なぜ構造構成主義の意義が伝わらないのか」、「どうすれば構造構成主義の意義が伝わるのか」が自分なりにわかった気がする。「批判は建設的な議論の契機として大切に受け止めるべき」というのは構造構成主義の大前提だが、ほんとうに、優れた研究者とのやりとりは“あとからじわじわ効いてくる”。

せっかくだから、もうちょっと書こう。

ある先生から、「どうも構造構成主義というのはナンデモアリになっている気がしてならない」と云われた。しかしながら「ナンデモアリ」といえば、これまでの文学研究こそナンデモアリの様相を呈していたと云ってよい。

たとえば小森陽一は、「シニフィアンの自立化」というソシュール言語学の用語を駆使しつつ、記号表現としての『上海』の物語言説を現実世界の上海から独立したものと看做すといった主張をしている。少なくとも80年代には主張していた。が、この論は僕の目には根本的に危うく映る。なぜなら、横光利一は日本で最初にソシュール言語学を受容した一人であるが、彼は音声言語を文字表記の優位においたソシュールの理論を換骨奪胎し、「文学は文字を用いる以上、文字表記を優位におかなくてはならない」といった主張をしているのである。ソシュールの言語論と横光の文字論の根本的な異同点を実証的に押さえてもいないのに、「シニフィアンの自立化」などと簡単に言うべきではないと思う。

(小森は「『上海』の物語言説を現実世界の上海から独立したものと看做す」とうテクスト論に基づく提言をした約十年後、ポストコロニアリズムの観点から現実の上海の歴史背景を読み取るような論文を書いている。いずれも優れた論文なのだが、小森のあいだで主張の内的一貫性はどのようにとられているのだろう。これは日本の文学研究全体にかかわる問題でもある。流行する理論を受容しては消費する日本の文学研究は、いかなる根本原理を指示棒として持っているのだろう)。

より深い読解のために理論を参照するのはよい。しかし、「作品の幅はつねに理論よりも広い」という、三好行雄の言明を想いださなくてはならない。単一の理論では作品を読み解くことはできない。それゆえ、複数の視点を総合しながら包括的にみていく必要がある。そのために、個々の方法論のちがいを認識論的レベルで問い直しながら、それらの通訳可能性を確保できるような理路を示さなくてはならないのだ。

もっとも、文学研究という狭い領土のなかで考えれば、このようなことを考えるだけ無駄ということはあるかもしれない。一体、文学研究という領土は、一本の論文の引用文献のなかに作品論とテクスト論という共約不可能なはずの論文・論者が肩を並べていても、何ら論旨の一貫性を問われることのないような平和な無風地帯なのである。“島国根性”とは、まさにこういうことをいう。

しかし、根本的な認識論を安易に接合できるというのは、あまりに安易すぎる考えだと思う。

歴史のアナロジーで語るとしよう。(そもそも歴史とは巨大なテクストであるが)。ニクソン毛沢東が肩を並べるためには、事前にしかるべき根回しが不可欠だったはずである。方法論の多元性を認識論的枠組みから基礎づけるとはそういうことだ。作品論とテクスト論が肩を並べるためには、事前にしかるべき理路を整えることが必要不可欠であるはずなのだ。

現在、日本中の大学から「文学部」という学部が消えている。早稲田でも去年から第二文学部の募集が停止され、その代わりに「文化構想学部」という、出所のかなり怪しい名称に変えられた。このような動きに対して、僕はまったく驚かない。以前から、哲学や心理学をやっている友だちからは言われていた。「文学の研究って何になるの?」と。それに対して答えるべきコトバを、いったい何人の文学研究者が持っているだろう。すでに、文学研究は“無防備都市”と化していたのである。

むろん、哲学や自然科学に対して宣戦布告せよというのではない。ただ、文学研究という領土に何らかの守るべきものがあるなら、少なくとも“理論武装”ぐらいしておけ、ということである。少なくとも、文学研究で口を糊する人たちがいるということは、(自衛権など持ちださずとも)生存権を守るぐらいの気持ちはあっていいはずである。

長々と書いたのであるが、じつはこれ、文学を読むための枠組みの話でしかない。いまの僕にとってほんとうに切実なのは、これからの問題だ。


 「読書行為のなかで現象化する感動なり躍動を、いったいどうすれば記述できるのか」


物語世界には固有の時間がある。読者は読書行為のなかで、その時間に没入し、作中人物たちと交流し、戯れ、ときには格闘もする。その感動を記述するには、いかなる理論を持ちいてもダメだ。最終的には、作品を丁寧に読むしかない。そう、最終的には作品の内在的分析に差し戻される。先生方のご指摘は、ひとうひとつが適確であり、正当であると受け止めている。

横光利一の『新感覚論』のなかに、「客体に躍り込む主体の感覚的躍動」という表現をみつけることができる。どうやらカント哲学を踏まえているらしいのだが、僕は長らくこの表現のことを「デタラメ」だと思っていた。じじつ、哲学思想的にはデタラメなのである。ところが最近、「案外、横光は何かつかんでたんじゃないか」と思うようになった。「感覚的躍動」の記述、それこそが、文学研究の根幹なのである。しかし同時に、それは「論文」という論理的形式においては不可能であるのかもしれない。だけど、それをやることなしには、真正の読書行為を実現することはできない。

紙の上に並べられたインクの羅列、その向こうにある物語世界。真正の読書行為とは、自分の認識線の限界を超えて、活字の向こう側の世界へ没入することである。読書行為とは、コトバという壁を通してのコミュニケーションなのである。有為の奥山を越えていく、根源的な活力がほしい。