倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

普遍性と固有性のあいだで ~国際文化と日本文学、学問世界と生活世界~

 国際文化学部の学際的なディシプリンを内面化してしまった(それ以前に、そんな学部を選択する素地をあらかじめ持っていた)せいか、「日本文学の個別専門研究に取り組む」のが、ときどき苦しい。学部時代は、日本文学のゼミに籍を置きつつも、東洋・日本思想、宗教学、国際政治にしか関心がなかった。

 現在に至るまでの、ぼくの研究上の停滞(もし停滞してるとすれば、の話)の原因は、「外部のシステム(=実体的には所属研究科)としての日本-文学研究という枠組み」と、「ぼく自身の内なる国際-文化学のディシプリン」とのあいだの“しっくりいかなさ”にあると思う。

 ただ、これは2001年の同時多発テロ事件以降の世界の変容を出発点にして学問をはじめてしまったぼく自身の“実存的な問いかけ”と不可分なので、学術研究のフィールドでどこまで妥当性をもつのかはわからない。

 実存的な問いかけは、学問の「普遍了解可能性」(=わかりやすさ)の阻害要因になる。同じ経験を共有している人にしか伝わらなくなるから。けど、日常生活での内的経験に基づく実存的な問いかけがまったくないと、それはそれで問題。学問世界の所産は、けっきょくは生活世界に還元すべきものだから。

 普遍性と固有性のあいだで 、それでもやはり、ぼくらは創造すること以外になす術を持たない。書くことの苦渋、その押し合い・異議を唱えあう始源的エクリチュールの隘路のむこう側にいる〈他者〉をめがけて。