倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

文学者の文学的責任

ヴォーカリストのアーティスト名を考案するため、現在試案として挙がっているキーワードの出典である『万葉集』について調べることにした。芸術家にとっての名前は“広義の作品”にほかならないので、それこそ学術論文を1本書けるぐらいの情報・知見を集約し、本質的に洞察し尽くすことが必要となる。


小説家志望でありながら、現代小説はほとんど読まず、もっぱら古典の世界に沈潜する高校時代をすごしていたので、あらためて『万葉集』の言語宇宙に触れることで、「原初の森の泉の底に身を沈める」ような感覚が呼び覚まされる。その静寂のなかに、異民族、異言語、根元的-他者のささやきが聴こえる。


ぼくが大学院進学を選択した理由のひとつは、「文学者の文学的責任」を自覚したから。綿谷-金原の芥川賞受賞(2004)や、白岩玄文芸賞受賞作のTVドラマ化(2005)といった現象をみながら、「そういったものではなく、専門的に学問をやった人間だからこそ書けるものを書きたい」と思った。


そんなぼくが、ここ数年、すっかり小説を書くことがなくなったのは、「専門的に学問をやった人間だからこそ書けるもの」が(すこしずつとはいえ)確実に出てきているから。諏訪哲史さんとか、東浩紀さんとか。平野啓一郎さんもそう。逆言すると、「もういまさら、ぼくがやることはない」と思わされた。


そこで、軌道修正するかたちで音楽制作をはじめた。(学問のかたわら何ヶ月もかけて長編小説を書くより、音楽をつくるほうが制作時間に余裕をもてるという事情もある)。21世紀の芥川になるはずが、野口雨情や西條八十のスタンスに近づいている。もちろん、これだって“広義の文学”にはちがいない。