倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

グローバルに、ナショナルに。-帝国主義者の悲しみ-




もともと、ぼくはグローバリズムに対して批判的な立場を採っていたので、ディズニーやハリウッド映画、あるいは、マクドナルドやスターバックスのようなファストフード文化に至るまでを“食わず嫌い”していた時期があった。(ついでにいうと、アメリカの軍事技術を転用したインターネットに対しても懐疑的だったので、とくにgoogleTwitterに関しては、2010年の4月まで一切使用しなかった)。

そんなぼくが方針を“軌道修正”するに至ったのは、「もはや政治・経済・文化のグローバル化が不可避的になりつつある現状において、それでもなお、あえてナショナルな言説を発信しつづけること」の“逆説”をきちんと自覚しなくてはならないと考えたからである。それに、見たことも行ったこともないディズニーランドを批判したって、説得力はあんまりない。それならば、「実際にディズニーランドをこの目で見て、その内的な経験に基づいて、建設的な批判を加えよう」と考えたのだ。

ぼくが実際にディズニーに対するボイコット運動から離脱したのは、2008年のこと。スターバックスへのボイコットを解除したのは、2009年のこと。おおむね、2008~2009年ごろが、ぼくの人生の主要な転換点だといえる。

ぼく一人がボイコットを継続したところで、グローバルな〈暴力〉の構造を是正できるわけでもない。どんなに米国のアフガン-イラク侵攻に反対したって、どんなに郵政民営化に象徴される構造改革新自由主義改革に反対したって、ぼく自身の主義主張のいかんにかかわらず、「アフガンやイラクに軍隊を送った日本国の構造体制に内属する存在」として、ぼくはここにいる。

ぼくは、じぶん自身の持ちうる「言葉の力」に、なかば絶望していると云ってよい。日本国内の情報は「自主規制」という名の“内面化された権力”によって抑圧され、ぼくのようなナショナリストは、もはや自己を語ることすらできない「サバルタン」の地位へと追いやられている。グローバリズムに対抗する諸勢力は、マスメディアの煽動によって弱体化され、「守旧派」だとか「抵抗勢力」だとかいったレッテルを貼られる。日本郵政は民営化によって弱体化され、先人たちの大切な遺産である郵便貯金は、外資の手中に収められることになる。(今後、もはや郵政改革法案は成立しえないのではないかと考えている)。ぼくらはマトリックスに囚われているのだ。そこから抜け出す術を知らない限り、ぼくらが何を語ろうとも、ぼくらがどんなに抗おうとも、結果的にマトリックス=グローバルな搾取の構造を強化するばかりなのだ。ぼくらの活動によって生まれた剰余価値は、海の向こうのアフガニスタンイラクパレスチナの人々を殺している。

この逆説を知らずにナショナリズムを語ることは不毛である。

だからぼくは、徹底したナショナリストであるために、徹底してグローバリズムを体現することにした。ちょうど、飛鳥時代の日本の官吏たちが中華帝国の権威を“後ろ盾”としていたように。ぼくの語る言説はだれ一人をも幸せにしない。しかし、ぼくが日本国民として、日本国内で行うすべての活動は、確実に、海の向こうの人々を不幸にしている。ぼくの主義主張のいかんにかかわらず、ぼく自身は帝国主義者としての行為遂行を生きているのだ。

大東亜-太平洋戦争の終結をひとつの契機として、東亜新秩序の建設といった「大きな物語」が失効して以降、一人のナショナリストとして生きることは、一個の悲しみである。ぼく自身にできることは、「いま・じぶんのそばにいる人を悲しませたくない」という、ささやかな自己中心主義である。(だれかといっしょにディズニーやスターバックスへ行くときは、お金はできるかぎりぼくが支払うことにしている。じぶんが帝国主義者になることは構わないが、じぶんのそばにいてくれる人を帝国主義者にはしたくない)。

以上が、グローバリズムへの参与観察としてディズニーランドを訪れたさいの印象である。