倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

読書会の記録(2010年9月4日)

今日は、久しぶりの読書会。内村鑑三の社会・政治論をはじめとして、カール・バルトの神学、それから、アクチュアルな政治について。いい感じに“学問モード”に戻れた気がする。

内村鑑三の社会政治論は、政治改革や社会改革といった“外部のシステム”の改革よりも、まずもって「自我」の改革、“内的な主観”を省察するところから出発している。(ここでいう「自我」は、独立自存の実体としては捉えられておらず、他者との関係において立ち現れた自己として把握されている)。

他者との関係において立ち現れた自己は、決して独善的なものとはならず、世界のなかで他者と責任をわかちあい、担いあい、自らの「天職」を生きる存在となる。天職 Calling の原義は[召命、神の呼び出し]である。世界のなかで他者と関わりあうことの究極には、つねに絶対的他者=神との対話がある。

内村は、外部のシステムの改革よりも、この神との対話を重視しており、宗教、道徳、文学による教育の必要性を説いている。彼によれば、国家の根幹においてその正統性を支えているのは、絶対的他者=神だからである。その論理的帰結として、内村は、「祭政一致」の国家の正統性を主張する。

祭政一致」と聞くと、(とくに現代の視点からは)驚いてしまう人もいるだろうが、その本質は、[ある制度的枠組みの正統性の根拠はどこにあるのか?]という問いかけである。

たとえば、“国家が犯罪者を裁く場合”を想定してほしい。現に、法治国家はその法体系によって犯罪者を裁き、場合によっては死刑に処する。この場合、“国は人を殺していいのか、いかなる根拠において裁くのか”という問題が首をもたげる。いったい、いかなる権能において善悪の判断を下すのだろうか。

カール・バルトの神学はやはりむずかしかった。しかし、やはり西洋哲学思想のうちにキリスト教が及ぼした影響は図り知れないものがある。とくに時間論。

読書会のあとは、毎回、先生方と中華料理屋さんに行くのがお決まりになっている。そこでの議論が、読書会そのものより盛り上がったりする。今日の議題は、ディズニーランドとグローバリズム、「最近の若者」(!)のコミニュケーション能力、秋葉原殺傷事件について、など。

そのあとは、数人で集まってスターバックスで政治討論。学生・社会人が交わっての議論なので、舞台裏の情報がいろいろと飛び交う。

以上。もともと、西洋社会における教会の役割として、[さまざまな年齢・職種の人々がコミニュケーションをとるための場を提供する]ということを挙げることができる。こうした読書会も、二十一世紀の日本において、それに準ずる機能を果たしているといえる。ささやかなものではあるけれど。