倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

おにはうち▽・ω・▽っ:

自己の外部に「敵」をつくって排除するという発想ではなく、“自己の内なる鬼=悪”とまっすぐ向き合おう。今日はそういう日だ。

“自己の内部の鬼”と深く向き合ってこそ、“真の福”は来るのである。両者は、いわば、“お面の裏と表”なのだ。

こういう節分のとらえ方は、おそらく少数派だろうし、「異端」だともいえる。日本人の信仰や考え方からすれば、「鬼は外、福はうち」というコトバの意味は、

「わるいものはそとに追いだして、家のなかを清めよう。それで福を呼ぼう」

ということだろう。これはこれですじがとおっている。・・・ただ、ぼくは“根っからのひねくれ者”なので、こんなことを考えてしまう。

「じぶんは、鬼(=他者)を傷つける権利をもっているほど、徳の高い人間だろうか。他者を審くことのできるような特権的な立場にあるのだろうか。・・・意外とそうでもないんじゃないか(笑)」

これは、日本固有の思想というよりは、どちらかというと西洋、とくにキリスト教的な考え方で、罪を犯した女性に石をなげようとしている人たちのまえで、イエスさまが、

「あなたがたのなかで、ひとつも罪を犯していない人は、どうぞ石を投げなさい」

と言ったら、だれも石を投げなかった(「他人を審くことができるほど、じぶんは完璧な存在ではない」ということに、みんなが気づかされた)というエピソードがあって、ぼくの「節分」解釈は、このキリスト教的な思考形式をもとにしている(と思う)。

これらの節分解釈は、どっちが優れているとか、劣っているとかいうものではない。ものごとをどう捉えるかは、それこそ個人の内面の問題だからだ。

石だったらともかく、豆をまくぐらいでケガ人が出るわけでもないので、それぞれの人にしっくりくる節分解釈を選べばいいと思う。(ぼくらには、かつて銃をとって「鬼畜米英」をうちまくった罪が負わされてはいるけれど)。

 ・・・

ついでにいうと、【ぼくらには、かつて銃をとって「鬼畜米英」をうちまくった罪が負わされてはいる】という文章には、あの戦争を闘った兵士たちを責める気持ちはまったくない。

一兵卒から戦争指導者にいたるまで、“彼ら自身の大義”を信じて闘った一人ひとり(ぼくの祖父もふくめて)を、ぼくは、最大限にリスペクトしている。

ここで俎上にのせたかったのは、「ある特定の思考形式(考え方、ものの見方)にひそんでいる“負の側面”にも意識的でないといけない。“正義づらして特攻したら、いつのまにか自分が鬼になっていた”という事態が(戦時下のみならず)日常的な場面にもしばしば起こりうる」といったことである。

このつづきは、また日記に書こう。