倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

キリスト教に基づく教育

博士後期課程の入試へむけて、万一のために併願も考えておかなくてはならないのだが、いま併願対象として考えている立教大学の学風・建学の精神がすばらしい。いや、あまりにもすばらしすぎる。

立教の建学の精神は、「キリスト教に基づく教育」というコトバに集約される。

もちろんそれは、ある特定の思考形式(ここでは狭義の「キリスト教」)のもとにその他の思考形式を従属させたり、規制したり、ましてや特定の思考形式を強制するものではない。

キリスト教本来の姿は、人間をあらゆる束縛から解放して、自由に真理を追い求めることのできる場へ導こうとするものです。そこに求められるのは、真理への畏敬の念であり、真理探究への謙虚な姿勢です。」(立教大学HP「建学の精神について」より引用)

立教大学が創立された当時、日本は、近代化の真っ最中だった。欧米先進諸国に追いつき、“物質的な豊かさ”を手にすることが最大の目標だったわけである。そのような背景のもと、教育も“実利主義”の傾向が強く、知識や技術をもって物質的な繁栄と立身出世の道具とする風潮もあった。

立教大学をはじめ、心ある宣教師たちの手で日本中に立てられたミッションスクールは、このような時流とは一線を画していた。じぶん自身の資質、知覚直感、価値の基軸に基づいて、“じぶんの力”で学ぶこと。それこそが、キリスト教に基づく学問のありかたなのである。(したがって、すぐれた研究者は、本人がキリスト教を信じているかどうかにかかわらず、キリスト教的である)。

ぼくが学部時代をすごした西南学院も、おなじ建学の精神にもとづくミッションスクールのひとつである。イラク戦争のとき、戦争を肯定したアメリカ南部バプテスト教会にたいして、日本バプテスト教会に属する西南学院が(じぶんたちの利害をそっちのけで)正しく抗議したことを、ぼくは、神の名において誇りとしたい。

「現象にとらわれず、常にその本質に迫ろうとする自由の精神こそが立教の精神といえます。」(同)

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こんなすばらしい学校を“併願”の対象としていいのか(つまり、じぶんのなかで“二番目”に序列づけていいのか)、ちょっとばかりでなく罪悪感をおぼえる。。

というか、むしろ立教に行きたi・・・いえ、これは寝言である。

人はだれしも「キリスト者共同体」(教会;神の義のもとにある者の集まり)のなかでのみ生きるものではない。いや、そのように生きてはいけないのだ。

これから、いかなる方向に進むとしても、「市民共同体」(国家;神の義にある者とそうでない者の集まり)のなかでの発言力というものもまた、必要とされるときがくるのだろう。それが畢竟、雑事にすぎないとしてもね。

なにはともあれ、立教にかぎらず、これから大学(ならびに大学院)進学のなかでミッションスクールに学ぶ機会を得る可能性のある人は、ぜひとも、その根幹にあるキリスト教の真髄を貪欲に追い求めていくべきだと思う。

なぜならそれは、西洋文明の主軸をなしている、“根幹中の根幹”だからだ。(したがって、そこには有効性があるとおなじだけ、批判すべき点もふくまれていよう)。

外部からみていると、「信仰という“狭義の構造”に基づいて世界を見ている人たち」というイメージがあるかもしれない。しかし、ひとたび内的な視点をくぐれば、そのような一般的イメージのほうこそ、啓蒙主義の犬どもによって作り上げられた虚像(つまり、啓蒙主義以降の枠組みの内部でつくられた、それじたい“狭義の構造”)にすぎないということがわかるはずである。

ポストモダニズムだとか相対主義のことを仔細に論じることよりも、何よりもまず必要なのは、「神なき時代の義をどこに求めるのか?」という、“神学的な問いかけ”である。かなしいかな、ミッションスクールに学ぶ機会をえられなかったおおくの日本の学識者たちは、このことを意識化する機会にめぐまれない。それなしには“次世代”を切り拓くことなどできないし、それなしに生きることはあまりにむなしいことであるというのに。