倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

(存△在)<「私はアルという者である。」

今日は、友だちと12:00に高田馬場ロータリーで待ち合わせだったのだが、「ケータイを持たずに出かけてしまう」という失敗をした。

予定よりちょっと遅れて12:10ごろ到着したのだが、友人の姿が見えなかったので、「どこかの店にでも入ってるのかな?」と推測。いずれにせよ、メールの確認をしないことにははっきりしないので、10分ぐらい様子をみたあと、いったん家に帰ることにした。

そして、13:00に帰宅。友人からメールが入っていて、むこうは12:30ごろ馬場に着いたらしい。(もう10分待っときゃよかった。けど、わからんもんねぇ)。もういちど馬場まで向かい、14:00にやっと落ち合えた。

もともとは“通信手段”にすぎないはずのケータイであるが、いまや現代人の生活スタイルをおおきく変えてしまっている。たかがメディア Medium と莫迦にはできない。ロミオとジュリエットの悲劇なんて、ケータイで容易に連絡がとれる現代であれば起こりえないのだ。(もちろん、別のかたちでの悲劇は日々生みだされているのかもしれないけどね)。

とりあえず、そんなこんなで、話題はコミニュケーション論だったり、メディア論だったり、あと「構造構成主義mixiコミュのあるトピック」の話題だとか、「ニコニコ動画で再生回数を伸ばすにはどうしたらいいか」だとか、いまぼくが横光利一の『上海』論でやろうとしている「租界都市における各国のナショナリズムの発生」の問題だとか、とりあえず、そんな話をした。あと『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とか『サマーウォーズ』の話題も出た気がする。

なかでも今日の話題の軸になっていたのは、日本人は「罪と恥」を語るときに、西洋の文脈でいうような「原罪 Original sin」を理解できているのだろうか、というところである。

インターネットで聖書っぽいモチーフの物語や歌を作って配信している人はよくいるけど、彼ら/彼女らは聖書っぽいことばはちりばめてても、その核心にある罪 Sin を理解できていない。

日本思想の文脈における「罪」(=天つ罪、国つ罪)というのは、ようするに「清めれば消える罪」にすぎない。それはけっきょく地上的な罪 Crimeにすぎず、ようするに、それは「恥」の範疇を出ていない。それに対して、西洋人が聖書をとおして自覚する罪は、ぜったいに消せない。死ぬまで消えないし、死んでも消えない。(一説によると、イエス・キリストを信じたら「消える」そうだ。しかし、「死んでもないのに、そんなこと分かるはずがないんじゃないか」とちょっと思う)。

今日は場所がサイゼリヤだったのだが、ちょうど壁に「受胎告知」の絵がかかっていて、その話題にもなった。欧米の人々であれば、コミニュケーションとかメッセージとかコトバとかを考えるときにまず最初に思い浮かべる、あの絵である。

神は、マリアに懐胎を知らせるにあたって、大天使ガブリエルを御使いとして地上に送った。

出エジプト記』のなかで、神は「私は“ある”(=存在)という者である」と語っている(正確には、燃える柴の木に“代弁”させている)のだが、にもかかわらず、聖書のなかでは、神は一度もその姿をあらわさない。(モーセは神をみることをおそれ、すぐに顔を覆った)。

(『創世記』のエデンの記述は微妙だけど、アダムは「あなた(主)の足音がきこえたので、(姿がみえるまえに)かくれた」と言っているように読めるので、「神は、人のまえには一度も姿をみせていない」とぼくは解釈している)。

神は 現前 Present するのではなくて、奇跡的なみわざだったり、地上にいるなにか・だれかを媒体 Medium として、表象=代弁 Re-presentされるにすぎない。(ついでにいえば、今日サイゼにあったのは、その『受胎告知』の絵の複製 Replica である)。

これはなにかの上手い比喩なんじゃないかなと思ったりする。たとえば、かたちのないイメージをコトバにするときの、とか。

「アタマのなかにある考え」を「コトバ」をなかだちにして表現するというのは、だれもが毎日やっていることではあるけど、ほんとうはすごくむずかしいことである。地上で起こる誤解だったり諍いだったり戦争だったりは、たいていコトバがじゃまをするせいではないかと思う。特に、「身振りや表情がわからず、コトバでしか意思疎通ができないインターネットでのコミニュケーション」なんかを考えてみると、ますますそんな気がする。

(それこそ、神は人の野望を砕くため、コトバをばらばらにしたんじゃないか、「バベルの塔」の建設のときに)。

さて、おなかがすいたのでココスへ行こうかな。