倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

ジャック・デリダとは誰だ? ~改名への欲望~

ちょっとまえに書こうとした日記なのだが、記憶をたよりに“復元”してみる。従って、以下の記述のなかで「今日」となっているのは、厳密には、今日ではない“過去の話”である。


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SAIYUの4Fで本を読んできたあと、帰宅しようとして自転車のところへ行ったら、忘れ物に気がついた。自転車の鍵である。

いそいで店のなかに戻ったのは、云うまでもない。

置き忘れたとすれば、どこだろう。記憶をたよりに、ついさっきまでの自分の軌跡を辿ってみる。まず、哲学書コーナーでデリダの入門書を読み、音楽コーナーでKeyboard Magagineを読み、そのあと、自動販売機で紅茶を買って、さいごに、エスカレーター附近のベンチでメールの確認をした。あるとすれば、あの最後のベンチではないか。

そう思いながら、「もしも鍵がみつからなかったどうなるか?」を想像してみた。自転車の鍵がくっついているキーホルダーには、ほかにもマンションの玄関の鍵とじぶんの部屋の鍵もついている。紛失したら、家のなかにさえ入れなくなる。

エスカレーターを半ば駆け上がりながら、しかし、4Fについたとたんに気がついた。ポケットの奥に入っていたのだ。上から財布を押し込んだせいで、わからなくなっていただけだ。

とはいえ、「ムダに急いで駆け上がってきた」ということになると癪だから、じぶんの徒労になんとか(無理矢理にでも)“意味”を付与したい。そこでぼくは、その勢いで哲学書コーナーにまいもどり、ジャック・デリダの入門書を買うことにした。というか、もともと買うつもりだったし、なぜ買わずに店を出たのか思いだせなかったので、「さては、こっちがホンモノの忘れ物か」と思い込むことにした。

で、なんとなく帰りたくない気分だったので、そのまま東京湾方面に自転車をとばした。

自宅から20分ぐらいで、東京湾に面した東京ディズニーリゾートに行き着く。2年前ぐらいにできたきれいな海浜公園が、さいきんはお気に入りのスポットになっている。左手には、房総半島がずっと遠くまで伸びていて、幕張メッセの高層建築群がミニチュアのようにみえる。右手には、羽田空港から離着陸する飛行機がみえる。

ちょうど父親から、「今日の夕方、成田からチリに向けて出発する」というメールが入っていたので、じっさいに目の前の上空を横切っていくのは羽田発の旅客機だったわけだが、「じぶんの父親の乗った飛行機を真下から見上げることがあれば、奇妙なかんじがするだろうな」とかいうことを、埒もなく考えたりした。

夕日が沈みそうだった(方向的には海のほうではないけど)ので、それを見送りながら高橋哲哉が書いたデリダの入門書を読むことにした。高橋哲哉といえば、『靖国問題』が(もっぱら保守陣営のほうでは)けっこうな不評だったのでずっと敬遠していたのだが、こと専門のデリダにかんしては面白い。読んでおいしい文章を書ける人だなと思った。

ジャック・デリダ」という名前がなかば“筆名”である(生まれたときはジャッキーだったそうだ)ということを、数年前から知ってはいたのだが、あらためて思いだすに至って、「やはり、書くことに意識的な書き手は、“署名”という第一歩にすら意識的にならざるをえないのかな」と思ったりした。

そもそも、戸籍のうえの名前は、じぶん以外の“他者”の筆跡なわけで、その“他者の署名”が、一人の人間の生をあらゆる局面において規定するというのは、なんとも奇妙なかんじがする。役所での手続のときとか、病院での診察待ちとか、宅配便を受け取るときとか、そういうときは、本人確認の手段として「名前」が用いられるわけだが、その名前は、根源的には“本人の文責の範囲外”の代物なのだ。

うちの親は「名前は手続のための“ただの記号”なんだから考えるな」といいわけをしていた。そういうわけで、ぼくは“戸籍上の名前”は“ただの記号”と受け止めていて、“自分の名前”とは認めていない。

こんなことを考えるぼくは、これから公的手続のたびに“ただの記号”につまづきつづけるのだろう。なんだろう、戸籍上の名前でよばれたときの、あの“他人事”のような感覚は。なんだか「自分以外のだれかになりすまして返事をしている」かのような、あの感覚は。

そして、“戸籍上の名前”でぼくを呼んだほうも、その“戸籍上の名前”のイメージとぼく自身の醸し出しているイメージがかなり乖離しているせいで、戸惑うらしい。

そういえば、西南学院(学部)時代のことだが、短編小説を学生同士でつくる文芸誌に載せてもらったとき、「末尾に記載する名前だけは実名で」と云われて、まぁ仕方ないか、と諦めたのだが、なんと「実名で記載されるはずのぼくの名前が実名ではなかった」というトリビアルな事件があった。“筆名”でもなく、“戸籍上の名前”でもない“根拠不明の名前”だったのだが、載せてくれた友だちいわく、「たしかこんな名前だったと思った」とのこと。そのころから、「じぶんとじぶんの名前の接続のわるさ」については自他ともに認めていたということの傍証でもある。

最近は、自己紹介をしなくてはならないばあい、よほど公的な場所ではないかぎり、「呼びやすい名前をつけてみてください」とお願いすることにしている。公的な場所で“戸籍上の名前”を口にしなくてはならないばあい、なるべく早口で口ごもるように発音して、聞き取られないように気をつけている。

じぶんの名前に何の違和感もない人もいるだろうし、むしろ、誇りを持っている人だっているだろう。そういう人は幸福だとおもうし、ぼくもそうであればよかったと思うのだが、すくなくとも、「改名への欲望」がぼくの「書く行為」の力の源泉になっていることはじじつであるし、それはもはや否定のしようがない。

なにを書こうとしたのか見失ったので、このへんでいったん終わることにする。こんな“宙吊り”の状態からは早く抜け出そう。