倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「職業」をめぐる本質的洞察

まずは音楽制作の話題。さいきん、“ミキシング&マスタリングの技術”が飛躍的に向上した。

具体的にいうと、「PANの設定」(それぞれの楽器の“音色の配置”を、左右のスピーカーのあいだでふりわけること)だとか、「センド」(個別の音色にそれぞれエフェクトを加えるのではなく、選択した音色ぜんぶに効果をあたえる方法。音がなじんで自然な仕上がりになる)といった“職人芸的な領域”において、である。

わかりやすくいえば、いままでの曲の仕上がりは「音がいちどに鳴っているだけ」だったようなものだ。

きちんと“音色の住みわけ”を考えたり、逆に、“相性のいい音色どうしをなじませる”ことによって、ようやく「音楽」になってきたような気がする。「いままで、よく人前であんな“粗造品”を演奏してたな」と、じぶんがおっかなくなってきた(笑)。

さて、いまは11月の早稲田祭にむけて、演奏予定の曲のリマスタリングをやったり、作詩をしたりしている。あとは、小室哲哉の「50曲同時リリース」にタイミングをあわせて、“51番目の楽曲”をつくる予定なので、そちらの作詩なんかもゆっくりやっている。

これらは、けっして“仕事”でやっているわけではない。だけど、“アマチュアのあそび”だからこそ、「じぶんの作品に妥協はできない」という“責任”をかんじたりする。

“責任”とは云っても、たとえば小泉純一郎のような新自由主義の犬どもが「自己責任」とか言っていたようなニュアンスではない。そうではなくて、むしろ“責任 Responsibility”というコトバの原義にあるような「(他者にたいする)応答」の感覚にちかい。

“数日間、寝食をわすれてひとつのことに没頭する”ときの感覚は、「じぶんのやりたいことをやる」という“日常的な感覚”とはちがう気がする。それよりも、むしろ「じぶんのなかの“根源的な他者”に突き動かされ、また、それに応答する」という、“宗教的な感覚”に近い。いや、「近い」というより、“宗教的感覚”そのものかもしれない。

いきなりタイトルにもどるけれど、「職業」というコトバの原義は、 Callig すなわち「(神 God からの)召命」である。“神”というのに語弊があるなら、“自分を越えた大きな存在”、すなわち、家族、友人、同僚、お客さん、といった“人間関係”はもちろんのこと、それをもとりまく世界、自然、宇宙、…そういった“自分以外の他者”のために答えていくのが、ほんとうのミッションであり、ぼくたちの生まれた意味はそこにあると思う。

日本にも「天職」というコトバがあるけど、このコトバ、現在ではだいたい「じぶんにあった仕事」であるかのように誤解されている。

日本語の文脈で「天」というばあいは西洋とはかなりズレがある(※例えば、福沢諭吉の「天は人の上に…」というコトバは、儒教的な文脈である)けど、おおざっぱに“じぶんを越えた存在”ぐらいの把握にとどめておけば、まあまあ齟齬はすくないと思う。いずれにもせよ、結論からいうと、「天職」というのは「じぶんにあった仕事」のことではないし、そもそも「じぶんにあった仕事」なんてものはない。

しかし、そうかといって、仕事のほうにじぶんを(ムリに)合わせるというのも、ちょっとちがう。

だって、「ひとつのことに熱中する」ような“純粋経験”の瞬間に、「ああ、じぶんはいま、“じぶんらしい仕事”をしているなぁ」なんて酔いしれる余裕はないし、逆に、「しごとのためならじぶんを“犠牲”にしてやるぜ」とりきみかえることもない。そんなこと考えずに、わき目もふらずに作業しているのがほんとうのところである。そういう瞬間には、じぶんと他者の区別なんてないし、「仕事をしなくてはならない」という義務感もないぶん、心身的にムリのないかたちで仕事がはかどったりする。

仕事に“やりがい”を感じないからと云って、「もっとじぶんらしい仕事」を求めて転職を選んだとしても、それは“選択のミス”である。ホントウにじぶんらしい仕事ってのは、“じぶんなんてものを忘れてしまう”ような仕事のことだからだ。

近代人はだいたい“デカルトの申し子”だから、なにごとにつけて「じぶん」を出発点にして考えてしまう。だけど、それはもうそろそろ終わりにしていいとおもう。「じぶんらしさ」とか、「じぶんのことば」とか、そういう“枠組み”は、ムダに息苦しいだけだ。

「天職」とは、「(じぶんの内外にいる)他者にたいする責任、応答をまっとうできるような仕事」のことである。