倉井の策略!?

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“ない袖を振る”という生き方

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 久しぶりに『サマーウォーズ』を観てきた。二度目である。小説であれ、映画であれ、ぼくは「じぶんの好みに合ったものをリピートする」という習慣があるため、劇場にだって通いつめるし、レンタルビデオやDVDであれば何十回も観直したりする。

 ちなみに、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、現在のところ4回観た。それなりに隅々まで見通したので、4度目に観たときには、すでに「ほかの人が笑わない場面で、大笑いする」という厄介な状態になってしまった。そのためもあって、“5度目”については自重している。

 さて、どうして『サマーウォーズ』を観ようと思い立ったかというと、ある作家さんのブログに書き込まれていた“匿名(正しくは、ハンドルネーム)のコメント”に触発されたからである。

 触発された、とは云っても、直接的に『サマーウォーズ』に関係のあるコメントだったわけではない。それは、こういう一文であった。


 「戦国時代も今の時代もない袖は振れない。」

 ぼくは、この一文を読んだとき、はたしてそうかな?と疑問に思った。「“ない袖を振る”という生き方もあるんじゃないか」と思ったのである。

 いや、「生き方」というのは的確なコトバではないかもしれない。それは云わば、「死に方」である。「死に方だなんて、生きてくために役に立つのか?」という声もありそうな気もする。だけど、「よい死に方」を知っていたなら、少なくとも「わるい生き方」をしなくて済むような気もする。いたって根拠はないのだけれども。

 そんなことを考えていたとき、ふと脳裡をよぎったのが、『サマーウォーズ』の物語だったわけである。

 とはいえ、近年は“ネタバレ”を過剰に忌み嫌う風潮がある(=「批評」という表現の形式がだんだん力を失ってきた)ので、物語の核心については、ここではふれない。(※なんとなれば、こんどオピニオン雑誌『表現者』に投稿するかもしれないので、より詳論についてはご期待しつつ待っていただきたい)。

 映画を観ながら思ったことは、ぼくの遺伝の約4分の1をつくっている“庄屋の血筋”であったり、別の4分の1をつくっている“旧士族の血筋”であったり、である。

 もっとも、これらはいずれも“母方の家系”(=女系)の話であって、しかも、しっかりとした系図を見たわけではない。ただ、ぼくの母親だったり、親族だったりの“証言”を紡ぎあわせていくと、「どうも、それらしい像がおぼろげながら結ばれる」と云うにすぎない。(この像を投射している光源は、案外、「自己という存在の正統性を誇張したい」という“欲望”であるのかもしれない)。

 ぼくの父方の家系はと云えば、長崎のある島嶼部に生活していた“漁師の血筋”にちがいない。(この事実は、じつに今年の3月になるまでの約14年間、ぼくをして父方の家に寄り付かない“放蕩息子”として生かすに至った根本原因のひとつである。その呪縛から解放されるきっかけは、“長崎の隠れキリシタンの歴史”という、“家の論理”を超越した“究極の価値”との出会いであった)。

 いずれにせよ、ぼくは、ほんのちいさいころから、「じぶんのご先祖は、どんなふうに生きてきたんだろう」とか、「どんなことを成し遂げてきたんだろう」ということが気になっていた。“浅はかな知恵”をしぼって“悠久の歴史の深淵”をのぞいた気持ちになるにつれ、ぼくはしだいに、価値判断の基軸を「自己」にではなく「歴史」に置くようになっていった。そのほうが、じぶんでもしっくりしたからだ。

 マックス・ウェーバーのつかった言葉をぼくなりに“換骨奪胎”すると、人間の行為は「目的合理性」と「価値合理性」という二種類の基準によって(さしあたり)分類することができる。

 ひとつ目の「目的合理性」というのは、目的意識のはっきりした“合理的な言動”の根拠になるものである。たとえば、「木こりが斧で木を切り倒す」という行為に対して、「それによって生活の糧を得るため」といったものである。

 それに対して、「価値合理性」というのは、目的意識のはっきりしない、“非合理な言動”の根拠になるものである。先の「木こりが斧で...」の例で云えば、その行為の根拠が「精神錯乱による発作のため」であるといった場合である。

 ただ、こうした二項対立はいくぶん表層的なものであって、たとえば、一つ目の例で「生活の糧を得るため」と言ったところで、「じゃあ、なんで生活の糧を得るのか?」「生きてくためだ」「なんで生きてくんだ?」「・・・」と問いを発しつづけたら、とたんに“合理的な答え”のない“生の問題”があたまをもたげてくる。反対に、二つ目の「精神錯乱によるため」という理由づけだって、「木を切り倒すことで木こりの錯乱が沈静化される」という“代償の効果”がみられるならば、心理学的には、そんなに“非合理”だとも言い切れない。

 ようするに、このふたつのコトバは、人間の行為を“さしあたり区別する”ための「仮説」にすぎないわけである。

 ともあれ、このように考えてくると、「人間っていうのは、根源的には“非合理な存在”なのかな」という考えに落ち着いてくる。考えれば、考えるほど、メビウスの輪を抜けだせなくなってしまうからだ。

 そして、こんなことを考えるぼくは、さしあたり「価値合理性」によって思考し、かつ行動しているクチなのだろう。

 ぼくはこの二年ほど、「次世代の新機軸を打ち立てる」という“ある思考原理”にかかずらわっていて、けっきょく「じぶんの認識の形式にしっくりこない」という結論に至ったのだが、それは表層的なところで云えば、「ぼくは“目的合理”のはっきりした生き方をしてこなかったし、これからもできそうにない」というところに集約されるとおもう。

 “あの思考原理”は、根本的には、「生きるための原理」なのだろう。中核概念がフッサール現象学という“生の哲学”に依拠しているのだから、ムリもない。

 しかしそれは、「形而上学」だとか、「芸術」だとか、あるいは「神学」だとかいう領域にはしっくりこない。その理由は、ぼくなりのコトバでいえば、「死なせてくれない」からである。別のだれかのコトバを借りれば、「原理と言われたとたんに、うごけなくなる」というのとおなじかもしれない。あるいはまた、「この原理は、文学を殺す」という、あのコトバとも。

 “あの思考原理”にふれた人間のうち、特定の領域に身を置く人間が似たような症状(=現象)に陥ってしまうというのは、やはり理論的に根拠があってのことかもしれない。それを解毒する“処方箋”は、あるいはデリダであったり、またあるいはロムバッハであったり、さいごにあるいはカール・バルトだったりするのだろう。それらの思考の共通項は、「主体の関心ではとらえきれない、“価値合理の世界”の一端を覗いた人」というところにある。

 そうは云っても、ぼくは“あの思考原理”の原理性をすこしも否定する気はない。むしろ、価値合理性につき動かされているぼくたちのほうが、「仮説に殉ずるタイプの人」だということだろう。「仮説」というのがマズければ、「物語に殉ずる人」とでも言っておこうか。

 とはいえ、「しなやかな生き方」が一つのあり方であるならば、「まっすぐな死に方」もまた一つのあり方ではあろう。

 「生者が語る死に方なんて、説得力がない」という声もあるかもしれない。しかし、光陰は矢の如し。人生の矢は“一発こっきり”、死という名の“目標”めがけて、ひゅっと射抜くだけである。死は、すべてのうごきの終局であり、且つ、根源なのだ。

 “まっすぐな死に方”を忘れた“生き方”は、たんなる“迷走”である。

 喩えて云うなら、目標めがけて玉砕するはずの特攻士が、“まっすぐな死に方”を忘却して“しなやかな生き方”だけを学んだとしよう。あるいは、そのパイロットは途中で知恵をはたらかせて生き延びることができるかもしれない。それは、個人という主体の“身体・欲望・関心”に相関していえば、“クレバーな選択”ではあるだろう。しかし、国家の大義という“より大きな価値合理”に照らしていえば、“迷走”であり、“逃亡”にすぎない。

 まあ、国家という主体の行為意志は、だいたいにおいて、個人のそれより非合理であるし、莫迦らしくもさえあるのだが、そういった「価値合理の世界」で“莫迦になれる”生き方、あるいは死に方というのは、現在においては失われつつあると云ってよい。

 “ない袖を振る”という生き方は、じぶんじしんの「価値合理」のために殉ずることであり、それは、近代的な合理主義に馴染んでいる人からすれば、“莫迦さわぎ”であり、“酔狂(あるいは精神錯乱)”であるだろう。しかるに、「狂気」は社会によってつくられるものである。その「狂気」を簡単に斥けてしまうような思考は、基本的には、近代社会の枠組みをそれほど超克し得ないのではないかと思ったりする。

 いずれにもせよ、きちんと論証したわけではないから、これは現時点でのぼくの所感であり、私論であるにすぎない。こういう問題意識を持ってしまった人間としては、上記のことをきちんとした論理的整合性をつけて論証すべき義務・責任をかんじる。

 しかし、それはいまのぼくには大きすぎる義務であり、責任である。今後につなげていくしかない。

 さて、気がつけば、ぼくはなんて“不器用な生き方”をしてきたんだろう。改善するつもりもないけどね。



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