倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

芸術表現における「真正性」の条件

文学であれ、音楽であれ、あらゆる芸術表現は、世界を刷新するための「権力への意志」を持たなくてはならないと、ぼくはおもう。とりわけ、マス・メディアが大衆をコントロールすることで「みせかけの世論」が形成されているような時代であれば。

ほんとうは、平和な時代に生まれたかった。牧歌的な“吟遊詩人”でいられるような中世ヨーロッパだとか、夕日のようにやさしい“戦後レジーム”の日本みたいな。ざんねんだけど、いまはもう、そんな時代ではない。

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数日前、じつに一年ぶりで明治神宮に参拝した。上京して以来、「一ヶ月にいちど参拝する」という決まりごとを守りつづけていたのに、いまではぼくは、日本の神々のまえでどのように立ち振る舞えばいいのか、どのように祈ればいいのか、すっかり忘れてしまっていた。

たまたま境内にいた女の子3人組のおしゃべりにちょっと聞き耳をたててみると、どうも福岡の子らしくて、大学の卒業旅行で東京にきてるのかな、というかんじだった。あの子たちの笑顔を守るためにも、だれかが“義務と責任”を果たさなくてはならない。

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さて、今後のぼくの方針としては、もう「学術論文」というかたちで雑文をまとめるのは“やめよう”とおもう。

具体的にいえば、とりあえず「評論」にそれらしい引用文献や註をつけて、あたかも「論文」であるかのような外観を捏造するという方法で“にげる”ことにする。つっこまれても知らない、ぼくは“学者向き”ではないから。

ぼくはもともと、「研究者」になるために大学院に入ったわけではない。ただ、文学研究の方法論にかんする「評論」を学術雑誌に投稿したら、なんだかまわりから「研究者志望の学生」だと思い込まれて、そういう方向づけでうごかされていた、と云うにすぎない。

じぶんでは「評論」のつもりで書いたはずの作品は、いざ雑誌に掲載されてみると「論文」として“レッテルづけ”されていた。ぼくとしては、あれはちょっと戸惑った。

じつはあのとき、「研究論文ではなく、あくまで評論として、ペンネームで発表する」ことの可否を編集委員長さんに訊ねてみた。返答は、「おすすめしない」ということだった。理由は、「まったく意味がわからない」とのこと。

あのときは39℃の高熱を出していたので、電話ごしにどういうことを云われたのかはっきり覚えていない。ただ、どうやら相手はぼくのことを「研究者志望の学生」だという前提でみていたようで、「実名で書きたくない」のは「ようするに責任逃れしたいんだろ」ということを云われたような記憶がある。

だけど、ぼくはこれまで「実名でなにかを表現する」という経験がまったくない。もう15年ぐらいまえから、「アーティスト名は作品の一部」だとおもっていたので、実名でなにか書くというのは、ぼくにとっては「寝間着で外出する」というのに等しい。

ほんとうは、筆名での発表が「不可能」だとわかった時点で、掲載を辞退すべきだったとおもう。それができなかったのは、なによりぼくの弱さであり、文責の放棄だったとおもう。あれ以来、なにも書けなくなったのは、あのとき、ぼくが“作者としての義務と責任”を放棄したからだ。

話のながれのなかで、ぼくが参加しているインディーズの参加型文芸サイト「マチともの語り」のことを完全否定されたのも、正直ちょっとどころじゃなくヘコんだ。あれはもともと、ぼくが西南学院時代に受講していた「読書教養講座」のさいごの時間、新谷先生のご友人のMAOさんが登壇して紹介してくださったのが縁で参加しているのだが、あれを編集委員長さんいわく「ヴァーチャルにおぼれるな」といって切り捨てられたのはちょっとどころじゃなく、ヘコんだ。

生前に「マチともの語り」のアドバイザーをつとめてくださっていた九州大学花田俊典先生のことなんかが脳裡をよぎる。「マチともの語り」で情報を発信なさっている方のなかには、顔を知っている人もいれば、まだ書物をとおしてしか知らない人もいるし、けっして地上では会えない方もいる。けれど、そうした“書き手”がヴァーチャルな存在ではないことだけは、たしかだ。表現の手段、表現の媒体が、ちょっと他とはちがうというだけだ。

そもそも、「mixi経由で知り、投稿した学術雑誌」と、「大学の講義をとおして参加したサイト」では、どっちがバーチャルなのだろう。

編集委員長さんからは、「きみが博士課程に上がって、それなりの業績を重ねていれば、出版の話もオファーする。(だから、研究をつづけろ)」と、具体的な出版社名もあげて言われた記憶がある。(じっさい、その学術雑誌の投稿規定には、「学会賞を与えることはないかわりに、すぐれた研究者には一冊の著書を執筆していただく機会をあたえる」という主旨のことが明記してあった)。そんな話まで出ていたので、ぼくはすっかり「もう研究をやらざるをえないのかな」と諦めていた。

しかしよく考えたら、その「出版の話」というのも、流れ的には「実名での執筆、刊行」というのが前提になっているはずである。

落ち着いて考えてみよう。もしじっさいに出版のオファーがきたとして、そのときぼくは、「実名」で著書を執筆するなんていう気持ちになるだろうか。未来のじぶんの判断は、いまのじぶんにはわからないけれど、おそらくそれは「ないだろう」という予感がする。

とりあえず、「筆名で書く」ということを許容してくれる場所をさがして、はやくそっちへ行こう。いまのぼくにとっては、それが最善の策だとおもう。戸籍のなかで眠ってるなまえは、もはやバーチャルだ。書いてるときしかリアルじゃないのだ。

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さてさて、さいきん、まえまでファミリーマートに売っていた「マーブルチョコレートジャンボ」をみかけないので、しかたなく“通常サイズ”をたくさん買ってたべまくっている。というか、このごろサンクスに「ポテトチップス九州しょうゆ」が置いてあるのは、どういう風の吹き回しだろう。