倉井の策略!?

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【雑誌評】『表現者』五月号を読んで

本日、『表現者』五月号を書店で購入いたしました☆ 以下の文章は、編集委員代表をおつとめになっている富岡幸一郎先生(文芸評論家)のブログに書き込もうと思ったコメントなのですが、書いているうちにやたら長く(富岡先生の記事本文より長い!)なってしまったので、それでは失礼だと思い、こちらに書き込むことにしました。富岡先生のブログには、のちほど凝縮版を書き込ませていただきます(笑)。

毎回、充実した誌面をたのしみにしていますが、今回は、やはり「日本文学の“女性力”」の対談がおもしろかったです。女性力、と銘打ってはありますが、「男」と「女」とを切り分けて分析するのではなく、時代や社会のうごきを総合的に捉えた上で、その本質をしっかりと洞察してるところに、今回の対談の面白さがあるように思います。

僕としては、「女人芸術」が刊行された時代背景として、芥川龍之介の自殺について言及されていたところに関心を持ちました。

>「不安」というのは芥川の個人の問題でもあるけれども、むしろ時代に対する不安があって、日本だけではなくて世界が大きく変わっていった。

という富岡さんの言葉に集約されていますように、「個人」と「社会」とを立体的に捉える視点は、文学を読む場合に限らず、この世界の変化を的確に読んでいくためにもたいへん重要なものだと思います。そのことと関連づけながら芥川の『羅生門』について書くと、作者の“失恋体験”、下人のエゴイズム、平安京の権力構造といったように、いろいろな“読み”のパラダイムがあるわけですが、ぼくが思うに、これらはバラバラな問題ではなくて、物語言説の“首尾一貫性”において有機的に結びついているものだと思っています。というのも、芥川自身の書簡をきちんと読むと、“失恋体験”というのは個人的な話にとどまらず、「家」と「僕」との対立、つまり、家父長制度下における自由恋愛の挫折という構造が伏在していていることがわかるんですよね。(まして、龍之介は養子ですので、話はもっと複雑です)。

個人(=人間)という存在が、時代(=時間)と社会(=空間)に内属せざるをえない以上、「個人」と「時代」、あるいは「社会」を区別して分析するにとどまらず、いまいちど総合的な観点から“解釈”していくことが、危機の時代を乗り越えるためには必要なのだと思います。それが本来、「批評」の力であり、役割であるにもかかわらず、「現在の文学はそのようなアクチュアリティを失って、素朴な“私語り”に終始している」という危機感があります。それは創作においてもそうですし、同時にまた研究においても、異なるパラダイム(作家論、作品論、テクスト論、etc...)が並立しながらも、物語を“読む”というところから実践的な知見を汲み上げるまでには至っておらず、細分化=専門文化された研究領土のなかで自分のタコツボを守ろうとしているにすぎないようにみえてしまいます。すこしでも現状を変えていきたくて、微力ではありますが、一人の文学徒として尽力しているつもりです。

ぼくは、いわゆる“保守系の雑誌”がどうも苦手で、『表現者』のように文芸分野にも力を入れている雑誌は、ほんとうに貴重で有り難いものだと思っています。対談の最後に尾形さんも仰言っていましたが、『表現者』という雑誌名はすばらしいですね。表現への活力が失われた現代において、『表現者』が果たしている役割はかぎりなく大きいと思います。今後も、一読者として期待しています。