倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

自分で自分のねじを巻く

食生活を改めることにしました。


さいきん顎関節症がひどくなってて、発声に時々支障をきたすようになっているのですが、じつはこれ、ビタミン不足が原因のひとつらしいです。端的に云えば、“顎にくる脚気”みたいな感じ。歯科医にきくと「マッサージしましょう」みたいなこと言われたんやけど、どうもそういうモンダイだけではないらしい。


考えてみれば、西南学院にいたときには菜食中心+野菜ジュースが主食だったのに加えて、毎日ジョギングしたり、無駄にコラーゲン飲んでたりしてた。栄養バランスもとれてて、なおかつ規則正しい生活を心がけてたから、健康だったのかもしれない。いまではコンビニ弁当に清涼飲料水+文章を書くときはポテトチップスが欠かせない。


友人から、「さいきん顔色がよくないぞ」と言われたので、気をつけることにします。


きのうの夜はココスでたべてきました。コンビニでヤケ買いするより安上がりだし、栄養もありそう。注文してから料理がくるまで、一人で考え事をできるのもいいよね。のみならず、きのうはケータイを家に置いていたから、久しぶりに「何もしない時間」を持つことができました。


余談ですが、趣味や遊びに没頭している時間はあっというまに過ぎていくのに、退屈な時間は鬼のように長いよね。


僕はちいさい頃から「教室」という制度になじめなかった人間なので、規則的に区切られた学校生活は、苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。それに比べて、家で好きな本を読んでいたり、ここ数年でいえば、明け方まで作曲/編曲の作業をしている時間は、信じられないほど早く過ぎていく。これは一体何なんだろう、と不思議に思っていたときがありました。自分が怠惰なだけなのか、他になにか理由があるのか、と。いまとなっては簡単なこと、時間なんて、ほんとうは僕らの認識がおりなしているだけ。


時計だなんて、誰かがつくった機械に合わせて生きる必要はない、ほんとうはね。自分で自分のねじを巻こう。


・・・さてさて、話は変わる。


友人の書いた論文が『構造構成主義研究3』(今年3月に刊行予定)に掲載されることとなり、今日は校正作業のお手伝い(といいつつ、読んで感想言っただけw)をしてきました。


どのような内容の論文かというと、「あらかじめ予測していても、実践現場に行くと不測の事態は起こるもの。だからこそ、そうしたモンダイをその都度その都度解き明かしていく“しなやかさ”が必要なんだよ」っていうことを、論理的に記述したものです。第三号は医療現場における根本問題をテーマとしていることもあり、友人の論文も、そちらの領域に活用しやすいような位置づけで書かれていました。


何かをやる手始めにはマニュアル(解説書)が欠かせないけど、その仕事に慣れてくると、今度はマニュアルどおりにやることが合理的ではなくなったりする。そういうときには、けっきょく自分なりの方法で模索しながらやるしかない。


言われてみれば当たり前のことなんだけど、こういう当たり前のことを理論化してくれる人というのは意外と少なくて、それが原因で世の中がぎくしゃくすることになったりする。自分で自分のねじを巻こうよ、そうすれば、何かが少しは変わるはず。


校正のとき、僕が来年号の投稿論文として準備している神学論についても、いろいろ意見を伺ってきました。具体的にいうと、構造構成主義のなかで「真理」とか「神」とか「客観」とかいった概念をあえて使うとすれば、どのような定義づけのもとに使えばいいのか、ということです。そういったコトバが一人歩きすると原理主義に陥ってしまい危険なので、そうならないように限定をかけるという意味で、カール・バルトの神学を基軸としながら論じてみるつもりです。


ただ、友人曰く、「君の言ってる神学的問題ってほとんど哲学で解けないか??」とのこと(笑)。


なんでも、竹田青嗣先生と西研先生の議論のなかに、僕が考えてたようなことがあらかた含まれていたのだそうな。。。う~ん、まだまだ読まなくてはならない本がいっぱいあります。とりあえず、仮タイトルは「神学的構造構成」ということで、ゆきづまったらその都度修正することにします。ゆきづまりは、新しい視界を開くための契機だから。


ていうか、4日しめきりのレポートをまだ書いてないよ?