倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

【学問論】「太陽系をつくる」という思想 ―日常生活から始める科学哲学論―

 ほしくずのように 
 かけめぐろう
 くらやみが 
 ぼくらをかなしませても
 ―― by 詠み人知らず

書店でこんなもの(以下)を見かけたので、まずはこいつに絡めて起句としてみたい。




「本シリーズは、最新の学説に基づいた正確な太陽系の運行を示す天体模型(太陽系儀ともいう)のパーツと、太陽系の惑星や宇宙科学を紹介するマガジンがセットになっています。マガジンで宇宙に関する知識を深めるとともに、毎号付いてくるパーツの組み立て方を丁寧に紹介してあるので、誰にでも重厚で精密な太陽系模型を作ることが可能です。」(リンク先より引用)。


電車のなかで考えてたときは「アゲハチョウ科の成虫の春型と夏型」について書き始めようと思っていたのだが、書店に行って方針が変わった。まあ、結果的にはたぶん同じところに行きつくような気がしてるから、アゲハチョウはまた後日にとっておこうと思う。(※いきなり「アゲハチョウ科の成虫は、……」みたいな始まり方をすると思うので注意)。とにかく、この天体模型、書店でひとめ見かけただけで、瞬間的に「欲しい!」と思った。

もちろん、手に取って見ているうちに、「ぜんぶ集めたらとんでもない額のおカネがとんでいく」ことに気がついたので、けっきょくは手に取るだけにとどめておいた。とどめておいたにちがいないのだが、この本(?)を棚に戻したあとで、「なぜ自分はそんなものをほしいと思ったのか」といった関心が芽生えているのに気がついた。手のひらに残った本の重量をなんとなくたしかめているうちにね。

“自分の関心”に関心をもって一体どうするんだ?と思われるかもしれない。じっさい、たしかに徒労であるかもしれない。けれど、少なくとも僕が幼い頃から天体に興味を示していたのはまちがいないし、就中、ここ数年は日常生活におけるモノゴトの動きに太陽系の運行との相似性を見出してしまうぐらいだったので、先刻の書店での“関心”も、ふつうの“物欲”にとどまらないことは、とりあえず確からしい。……とりあえず表紙を見返してみる。


「太陽系の惑星と、2006年8月に行われた国際天文学連合IAU)決議を反映した準惑星が揃った太陽系模型。他では手に入らない、限定コレクターズアイテムです。」(前同)。


ところで、僕が「日常生活におけるものごとの動きに太陽系の運行との関連性を見出してしまう」ようになったのは、半年前、部屋に偶然迷い込んできたコガネムシの挙動をみてからだ。いったいどこから迷い込んだのか、“やつ”は、甲冑のようなその羽根に自身の質量を危なげに支えながら、円形の蛍光灯の周囲を反時計廻りに旋回しだしたのである。

僕は昆虫をさわれないので、しばらく机の下にかくれながら子犬のように怯えていたのであるが、しばらくそいつを見ているうちに、不意にはっと気がついたことがある。

……これは、けっきょく惑星の公転と同じではないか。

もちろん、これが論理を飛躍した“直感”に過ぎないことは自明であろう。であろうことはまちがいないのであるが、僕はこのときの“直感”をいまだに疑うことができずにいる。なぜならば、それ以降、「この世界のあらゆるすべてが、最終的には太陽系の運行と相似形を成している」という「信憑」が、僕の内部にすっかり取り憑いてしまったからである。

この「信憑」を取り除くことは、言っているわりにじつはたやすい。要するに、身の回りのモノゴトのなかから一つでも反証を挙げれば事足りるのである。僕はつとめて、日常的な風景のなかから太陽系の運行とは無関係っぽいものを発見しようと躍起になった。しかるに、この簡単な反証をすら、けっきょく僕の力では果たしえなかった。空をいそぐ雲の流れ。部屋に飾った鉢植えの花。ついさっき、コーヒーカップのなかに注いだミルクの撹拌模様。スプーンを扱う指先のうごき。日常のなかに見つけられるモノゴトのひとつひとつが、僕の「信念」を補強してしまうほうへと、一方的に作用してしまったのである。(註:ここでいう「信念」とは、「確信構造=思い込み」とほぼ同義)。

もちろん、だからといって、この「信憑」が疑い得ない事実かどうか、保証するものは何もない。「人は知るもののみを視る」と云われる。一体、僕の眼に映った「状況」(=事実)のすべてが、僕のその「眼」(=感覚器官)に色づけられた「情況」(=現象)にすぎないという可能性を払拭するものなど、僕のあたまのなかにはない。(あたまのそとにあるかどうかは、知らない)。

だいたい、僕らは地球の上に生きている。その僕らが、いったい地球上の出来事を客観的にみることなんてできるはずがない。況してや、太陽系の運行について把握し尽くすことなんてできない。況んや、この銀河系の出来事をなど、……こうした思索は、ひっきょう無限遡及に終始するであろう。無限遡及そのものは徒労である。けれども、このように僕らをとりまいている全体情勢について思いを巡らしてみることは、反対に全体情勢について考えている「自己」の置かれた状況について、何らかの悟り(=統覚)を得ることにつながるかもしれない。

「統覚」などといって、かならずしも難解な認識論を駆使しようというわけではない。むしろこれは、日常生活のなかにありうるさまざまな状況について、的確に言い当てているような気がする。(僕だったらこれを、「ポンッ!と浮かんだアイデア」と翻訳する)。

たとえば、毎日のルーティン・ワークに疲れてしまったOLが、残業の夜、一人きりの薄暗い職場の机で、「あーあたし、転職したいかも。」と悟ってしまったと仮定しよう。彼女がもはや、その職場で実績をあげるかどうかは、ここではあんまりカンケイない(彼女自身も、もうそんなことは考えないのではないかと思う)。とりあえず、彼女の脳裡に何らかの「統覚」(=たとえば「新しい転職先への希望」など)が、太陽のようにとは云わずとも、豆電球のようなささやかな輝きで灯っているかもしれないのである。日々のルーティンワーク(=無限遡及)自体は、彼女にとっては無益かもしれない。だけどもそれは、彼女にとってはかけがえのない希望(=統覚)を与えてくれたじゃないか。(註:その転職が上手くいくかどうかまでは知らない)。

いっけん不確定性に満ちた日常的な出来事(=現象)のなかから、自分なりの理論(=構造)を抽出してみることは、それ以降に出くわす状況に対する自分なりの対処法(=方法)を整備することにつながるかもしれない。もちろん、予測は外れることもあるけど、そこにどんなメリットがあるかというと、「いったん自分なりの考えを整理しておけば、次からは同じことについて考えなくてすむ=別のことに取り組む余裕が生まれる」ということである。

「太陽系をつくる」という思想、――それは、自分のあたまのなかに太陽系(=全体情勢)のモデルをつくる(=構造化する)ことである。それは、頭のなかの“整理整頓”をすることによって、「思考の省スペース化を促進する=別のことを考える余裕をつくる」ことにもなりうるのではないかと思う。


「保管するときは、惑星のアームを動かして片側にまとめられるので、場所を取らずに保管でます。」(同上、“き”が抜けてるよ、“き”が)。


なんだか回りくどく書いてきたようだが、じつはこれ、ほとんどの人なら無意識のうちにやっていることに他ならないと思っている。……まったくの思いつきで自動車教習にたとえてみると、「昨日のやり方では教官に怒鳴られたから、今日はこっちのやり方を試してみよう」とか、「八の字のハンドルさばきがだんだんつかめてきたから、今日はもうちょっとだけタイミングを早めてみよう」とか。日常的なレベルで云えば、これは「反省」という。どんなに不器用な人であっても、教官のしごきに耐えて試行(=思考)錯誤しているうちに、「ああ、ステアリング(註:自動車のハンドル)とは「握る」ものではなくて、直線上では基本的に「手をそえておく」ものだったんだな」とか、ともかくそういう「統覚」(=勘)に最終的には至るものである。

(註:僕は免許をとってから五年ぐらい、自動車のハンドルを握ったことがない。だから、ここで書いたことはもしかすると、ちょっと的外れなものになっている可能性もある。五年間のブランクのうちに統覚=勘が鈍っていることが充分にありうることを、ここでおことわりしておきたい)。


ここでとつぜん、自分で自分の話の腰を折ってみることにすると、「科学言語」というのはけっきょく、「日常言語」の反映にすぎない。どんなエラソーな科学者であっても、やつらは家ではものを喰い、風呂に入り、ぶざまな格好で寝ているにちがいないのだ。(それだけじゃない。学者に二世・三世が多いということを考えると、彼らはベッドのなかではあんなことやこんなこともやっt……)。けっきょく、人は自己の経験からしか語ることができないのだから、どんなすごそうな学説であっても根本的には疑いうる。これを「根本仮説」という。“神ならぬ人間”が考えることなど、ほんのちいさなあたまをひねってウンウン言ってる“うめき”に近い。

しかし逆にいえば、どんな抽象的な論理であっても、わかりやすい「ことば」にときほぐすというプロセスを経たあとであれば、だいたいのものは日常生活に活かせるのではないかと考えている。なぜかというと、この無機質な現代社会も、あの人畜無害な学説のるつぼも、打ち立てるところが「現実世界」(=外部)なのか「アタマの中」(=内部)なのか、といったちがいを除けば、おどろくほど似ているような気がするからである。(註:これは、「高層ビル」の群れがもはや僕には「活字の羅列」と似ているようにしか思えない、という、これまた“直感”に基づく「信憑=根本仮説」に基づいている)。

要するに、「ぜんぶ自分の確信構造=思い込みにすぎないのではないか」という疑念を出発点にしながら、またあれこれと考えるしかない。そういうことを考えながら僕は、毎度のように今夜もまた、書店に入りびたっていたらしいということである。「自分が一生のうちに読む本よりも、もしかしたらこの店にある本のほうが多いかもしれない」とかいう、おそるべき不安を抱きながら。


……さて。


修士課程にもう一年残ることが決まって以来、自分が「学問」(学歴ではない)に求めるものは何だったかと省察する機会に恵まれた。上記のことは、いわば“いまの僕にとっての学問論=科学論”になっていると思う。あくまで“いまの僕にとって”で、僕以外の誰かのアタマに適合するか、客観的な保証はない。

ときどきこんな長くなって申し訳ないのだが、基本的に「日記」というのは他人の読むものではなくて自分が読み返すものだと“思い込んでいる”ので、万が一みてしまったひとには「ごめんなさい」の一言しかない。見てしまった人は、どうかお口直しにどうかどうか、数日中に書くであろう“僕の言語論=文学論”についても読んでいただければ光栄です。僕がこの数年間に考えてきた、「他者のコトバで語らされること」についての「まとめ」的なものになると思います。

……さあ、今度こそは「アゲハチョウ科の成虫の春型・夏型」について書いてやるしかない!!(泣)