倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「神仏習合思想」ってなぁに? ――日本人と神道、仏教の関係をめぐって――

?H2>○はじめに

 みなさんは「神仏習合思想」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは分かりやすくいえば、「原初より日本にいらっしゃる八百万(やおよろず)の神さまと、のちの時代に外国からきた仏さまとを同時に敬い、信仰すること」を意味しています。
 現在では、日本固有の神々への信仰(神道と呼ばれています)と仏教はまったく異なる宗教であり、「かつては両者が結びついて、ひとつの思想を形づくっていた」と言われても、なかなかのみ込めないかもしれません。しかし、過去を振りかえってみると、神仏習合の歴史は奈良時代から江戸末期にいたるまで、実に千年以上に及んでいます。――「神と仏は水波の隔て」(『毛吹草』)という言葉もあるように、日本人の間では長らく神と仏の区別がゆるやかだったのです。
 皇室においても、江戸時代までは皇位をお継ぎにならない親王や王は仏門に入ることが決まりとされていました。これも現在の感覚では、非常に違和感があります。けれども、江戸時代までは実際にそうでしたし、当時の人々はそれを当たり前のこととみなしていました。


?H2>○日本固有の信仰――神道、神ながらの道

 おそらくみなさんは、初もうでや七五三などで神社へ行ったことのある人がほとんどだと思います。神社には、規模の大きなものから小さなものまで、また歴史の古いものから新しいものまで、日本全国に数多く存在します。そして神社ごとに祀られている神さまも異なります――それらの神さまを総称して、八百万の神さまというのです。
 現在、神社で行われている祭祀は、神代以来、連綿とつづいてきた伝統を受け継いでいます。これらはいわば、日本人の宗教性の原点といえるわけです。
 こうした日本固有の信仰のことを神道と呼びますが、この呼び方は六世紀ごろ、大陸から伝来した仏教との対比によって使われはじめたようです。文書の上で“神道”という言葉がはじめて用いられたのは、『日本書紀』の用明天皇聖徳太子の父君)に関する記述です。――「信仏法、尊神道」(「仏教を信仰し、神道をも尊ぶ」)。
 神道は、律令制国家が整備される過程で、大和朝廷の祭儀に、大陸伝来の思想が影響を与えながら確立されていきました。ですから、神道は日本固有の思想でありながら、けっして日本独自の思想に凝り固まってはいません。外国の思想を受け入れる“寛容さ”を持ち合わせているのです


?H2>○仏教伝来  
 6世紀ごろ、大陸からたくさんの渡来人が日本へやってきました。それと同時に、おびただしい知識・技術も日本にもたらされます。仏教もそのひとつです。
 仏教公伝(正式に日本へ伝わること)の年については、538年説と552年説とがあり、はっきりとはわかっていません。ただ、日本の正史である『日本書紀』によれば、欽明天皇一三年(552年)、仏教をめぐってこんな記述がみられます。――

 
 「是(こ)の法(みのり)は諸の法(のり)の中に、最も殊勝(すぐ)れています。解(さと)り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。此(こ)の法(みのり)は能く量(にかり)も無く邊(かぎり)も無き、福徳(いきほひ)果報(むくい)を生(な)し、及至(すなは)ち無上(すぐ)れたる菩提(ぼだい)を成辧(な)す。」(『日本書紀』・欽明天皇十三年/五五二年より)

 これを受けて天皇は、「私はこれまで、こんなにも詳しい教えを聞いたことがない」と、仏教を激賞しました。
 ところが、臣下たちの間では評価が二分します。まず、渡来人と交流の厚かった蘇我稲目(そがのいなめ)は、仏教を積極的に取り入れるべきだと主張しました。――「西の国々はみな、仏教を敬っているのです。どうして日本だけが、これに背く理由がありましょうか。」
 それに対して、地方豪族の出身・物部尾輿(もののべのおこし)は反論します。――「われらの帝が天下を治めておられるのは、八百万の神々をお祀りしておられるからだ。もしもいま、これを改めて、異国の神なんぞお拝みになれば、おそらくは日本の神々の怒りをかいましょうぞ。」
 この対立はその後三代(約五十年間)にわたってつづき、その間、仏教はいくたびかの迫害を受けました。日本の地で仏教が本格的に栄えるのは、つづく聖徳太子の時代です。

 さて、これまでは、日本固有の神道と外来の仏教の特徴・歴史について見てきました。それでは、このふたつの思想がどのようなプロセスを経て結びつき、「神仏習合」と呼ばれる思想体系に発展したのかを見ていきます。


?H2>神仏習合思想

 律令制国家制定時には、仏教は国家に保護されながら広められていきました。
 はじめのうち、神道と仏教の関係は、「神が仏法を擁護する」というかたちで、神道を優位にみるものでした。しかし八世紀の末になると、いささか状況が変わってきます。すなわち、「神自身が仏法によって神身離脱を願う」(…神さま自身が、仏教徒になりたがっている)という思想が現れたのです。この背景には、当時の疫病流行・穀物不作という現実を前にして、「これは仏道に入り得ない神さまのたたりでは」という考えが民衆の間に広まったことが挙げられます。
 日本の神祇と仏菩薩の関係を説くために考え出された理論として、本地垂迹(ほんちすいじゃくせつ/ほんじすいじゃくせつ)が有名です。
 
?H5>本地垂迹説  
 本地垂迹という言葉はもともと、大乗経典の一つ「法華経」にみられます。これは、永遠不滅の理想的釈迦を本地とし,歴史的現実の生身となって布教した釈迦を垂迹とするものです。これを神仏の関係に転用したものが、日本の本地垂迹説で、日本の神は仏の迹を垂れたもの――つまり「神は仏の生まれ変わり」だという考え方です。

 聖武天皇は、東大寺大仏(盧舎那仏)を造立するにあたり、橘諸兄行基伊勢神宮に遣わし、その成就を祈らせました。その結果、天照大神盧舎那仏(大日如来)は同体であるとの夢告を受けるのです。ここから、朝廷は政策的立場から神仏同体の思想を打ち出しました。これが日本の本地垂迹説のはじまりです。……けれども、このときはまだ民間を含めた一般的な思潮とはなりませんでした。

 本地垂迹説が広く一般に浸透するまでの流れは、以下のようになります。
 
783年(延暦2)、八幡神に大菩提の号を奉る。
 →神祇が一段と仏尊の地位に近づく。

密教行者の山岳修行に伴い、山の神祇が仏教化。
 →吉野の蔵王権現のように、仏教の護法神とも結びつく。

山中他界の祖霊信仰と弥陀、観音、弥勒等浄土の信仰が習合。
 →熊野など各地の修験道では、神仏はまったく対等かつ同体となる。
 →中世には、ほとんどの神社で祭神の本地となる仏尊名が定められ、仏本(地)神(垂)迹の説が一般化。

?H5>○神本仏迹の発生  
本地垂迹説が一般化すると同時にそこから、「光神明の慈悲利益を離れては仏法も成り立ち難く、釈迦も神祇の化儀なり」とする神本仏迹の思想(反・本地垂迹説)が現れました。とくに、天台・真言の顕密仏教から、神道理論を構成する者が現れたのです。天台では日吉社山王一実神道真言では大和の三輪神道や伊勢外宮を中心とする伊勢(度会)神道が発生しました。
 また、伊勢神道密教の胎蔵・金剛両曼荼羅を中心とする二元観をもって、内宮・外宮の関係を説きました。《神道五部書》をつくり、密教のみならず道教陰陽道などさまざまな思想を混合して伊勢信仰の権威づけと神秘化を図り、神本仏迹説の奥儀を示したのです。

?H5>○神本神迹説へ

 やがて室町期、吉田兼倶が「仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本」とする三教枝葉花実説を唱え、陰陽道道家思想をもって神祇の分類と体系化を図りはじめます。それが『唯一神道名法要集』なる著作に結集。→ここに神本神迹説ともいうべき立場が成立します。これによって、本地垂迹説の時代は終わります。

 その他の思想として、人本神迹を挙げることができます。――民間では『神道集』や御伽草子本地物にみられるように、死後神に祀られた人間こそ、人生における苦難の体験者として、神に勝る尊さが仰がれるとされ、人本神迹の思想が広がります。この流れが、吉田神道の出現ともあいまって、近世の儒家神道成立への道を開いたのです。
 


?H2>○参考文献

本地垂迹』 村山修一 日本歴史学会・編 吉川弘文館 昭和49年6月5日発行
神仏習合の歴史を、本地垂迹説をメインにしつつ、わかりやすくまとめてあります。
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『仏教と出会った日本』 日本仏教研究会・編 法藏館 1998年8月5日発行
 p.37-50に神仏習合関連。p.43に伊勢神宮の「神仏隔離」について書かれています。
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『仏教の理論と歴史』 伊藤康安 淡路書房新社 1957年11月30日発行
 p.341-356に本地垂迹説に関する論あり。神仏習合のプロセスが詳細に書かれています。
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国家神道形成過程の研究』 阪本是丸 岩波書店 1994年1月28日発行
 明治期の神仏分離関連。当時の資料をふまえつつ、国家神道の問題点について。
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『日本宗教制度史<上代編>』梅田義彦 東宣出版 昭和46年9月30日発行
 今回はあまり参照しませんでしたが、上代宗教関連の資料が多数収録されていて便利です。
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