倉井の策略!?

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憲法九条の可能性 01 ――非武装時代という理想主義――

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 序文でも触れたが、筆者は必ずしも憲法九条を“不磨の大典”とは見做していない。成立史を詳細に紐解けば、それが占領統治という外圧による代物に他ならないことは明らかである。従って、将来的にはこれを改正し、日本が自立自尊の構えを取り戻すことを、筆者は希求する。
 しかしながら、21世紀初頭という現行の情勢を鑑みて、敢えて「当面保持」という選択に基づいて憲法九条の持つ可能性を論じている。なぜならば、現今の憲法改正論議の背景に、東アジア戦略を有利に進めたいアメリカの傲慢と、それを拒否できない日本の薄弱とを見てしまうからである。


 ?H2>日本国憲法の成立背景■

 まず前提として、日本国憲法第九条の本文を確認しておきたい。

     
【第2章―戦争の放棄】
[第9条] 

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 決して長い条文ではない。この131文字(第一項83文字、第二項48文字)が、日本の「戦後」体制を呪縛しつづけてきたのである。
 それでは、九条をふくめて、日本国憲法がどのような経緯をへて施行されたのか、成立の背景を紐解いてみたい。

 
○1945年 8月 昭和天皇終戦詔勅を放送。
●  〃 年 9月 アメリカ政府、「占領政策の基本方針」を発表。
●  〃 年10月 マッカーサー明治憲法の抜本的な改正を2度にわたって勧告。
○         幣原内閣、松本烝治を主任とする憲法問題調査委員会を設置。
○  〃 年12月 松本、同委員会が憲法改正案を作成する旨を衆議院にて表明。
●1946年 2月 マッカーサー憲法三原則をGHQ民生局に指示。
○         日本政府、松本丞治の草案をGHQに提出。
●         占領軍総司令部、この〈要綱〉を拒否。
●         ホイットニー准将、松本烝治らにGHQ草案を提示。
○  〃 年 3月 日本政府、憲法改正草案要綱を勅語、首相談話とともに発表。
●         マッカーサー、同日この要綱を全面的に支持すると声明。
○1946年11月 日本国憲法公布。
○1947年 5月 日本国憲法施行。

 「○」と「●」による色分けは、日本国憲法の成立に対する「○日本側の働きかけ」と「●占領軍側の働きかけ」を区別してみたものである(…もっとも厳密にいえば、日本側の働きかけにもGHQの指令に基づくものが少なくないこともあり、これはあくまで参考程度の区別にすぎない)。
 以上の流れからも察せられるごとく、日本国憲法はGHQ民生局の起草したものが下敷きとなっている。――日本国憲法を「占領軍による押しつけ憲法」として一方的に断罪することには、多少議論の余地があるかもしれないが、少なくともこの憲法の出自には占領体制下の圧力があったこと、そしてそのために、日本国憲法が数々の矛盾が内在していることは間違いないだろう。


 ?H2>■第九条の時代背景~非武装時代という理想主義~■

 さて、ここで第九条の成立背景を紐解いてみたい。
 憲法戦争放棄の条項を盛り込むことは、実は日本側の発案であったとする説がある。堤堯氏の『昭和の三傑』(集英社インターナショナル)によると、九条の生みの親は当時の首相・幣原喜重郎であったという。堤氏の推理はこうである。――戦争放棄、戦力不保持の条項は、日本国民が「アメリカの手駒」となることを防ぐための「救国のトリック」として憲法に盛り込まれたものである。
 これに対する異論として、中曽根康弘氏が『憲法改正大討論』(共著)のなかで以下のように述べている。

    
 幣原さんのほうから第九条をいい出したという話は、マッカーサーが『回想録』(津島一夫訳、朝日新聞社)のなかでいっていることです。(中略)でも、これはマッカーサーの自己弁護のようなもので、占領政策の延長線上の話として受けとるべきでしょうね。完全な作り話です。
 その証拠は――マッカーサー草案が出されて、国務大臣の松本烝治がそれを受けとって閣議に付したとき、まずそれに反対したのが幣原さんだったからです。昭和二十一年二月二十一日か二十二日の閣議のときのことです。そしてその後、幣原さんは何回かマッカーサー司令部へ陳情に行ったりしている。もちろん第九条の問題についても陳情しています。そのことについては幣原さんの秘書をしていた人が記録を残しています。幣原さんがいったとおり、そのとおりに書いたといっていますが、それによれば幣原さんは「第九条については反対である」といったとある。ですから、第九条は幣原さんがいい出したというのは明らかな間違いです。   

 この両論の真偽判断については、――両者の依拠する資料が(…マッカーサーの『回想録』にせよ、幣原の秘書による記録にもせよ)きわめて私的な性格のものであること、また堤・中曽根両氏の憲法改正における立場の相違に基づくバイアスがかかっている可能性もあること、――以上の理由から容易には判断しがたい。ただ、主権国家の判断として考えると、第一項の「戦争放棄」はともかく、第二項の「戦力不保持」という条項を、日本側が嬉々として受け入れたとは考えがたい。従って、憲法九条を受け入れるにあたって、当時の日本政府のなかにさまざまな葛藤、反発、打算のあったことはまず押さえておくべきであろう。

 ただ、日本の内政ばかりでなく、世界史の潮流を鑑みるならば、憲法九条は当時最先端の思想を提示するものであったという解釈も成り立つはずである。少なくとも、筆者はこれを否定しない。 
 世界大戦が終結した直後にあっては、「全世界に非武装時代がやってくる」――あるいは、より積極的に「非武装時代にしてゆかなくては」という理想主義(…あるいは幻想)が広がっていたとしても不思議ではない。――満洲事変の立役者にして関東軍参謀の石原莞爾は、日本の戦争を「世界最終戦争」として捉え、敗戦の後には戦争の永久放棄を唱えるようになった。これは彼の変節ではない。彼は初めから、大東亜・太平洋戦争を世界平和へと向かう不可避的な道程と捉えていたのである。先の大戦において、日本は「東亜ノ安定ヲ確保シ 以テ世界ノ平和ニ寄与スル」(開戦の詔勅より)ことを目指していた。帝国政府声明に拠れば、「只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たんと冀念する」とある。――要するにアジア解放の謂いである。
 この理念自体について、筆者は特に異論を持たない。しかしながら、斯くのごとき理念を実践するにあたって、日本は重大なる誤謬を犯した。すなわち、欧米列強の暴力に抗するに、戦争という暴力を以って対したという事実である。――もちろん、日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の対応(…具体的には、ハルノートという事実上の最後通牒の提示)という現実が、日本に苦渋の選択を余儀なくしたことも否定しがたく、また当時の国際情勢が、世界史的には帝国主義の時代であったことも考慮されなくてはならないだろう。筆者は決して、現今の賢しらを以って過去を断罪する者ではない。――しかし敢えて言挙げをすれば、“暴力に対する暴力”という鎖に呪縛されていた点で、日本の努力は西洋と同じ穴の狢であった。日本の大義は“鎖の中の大義”に他ならなかった。この点で、軍事力において圧倒的に劣る日本は、あらかじめ敗北を約束されていたのである。

 大戦後の世界が、不戦・非武装の指向、帝国主義的な不均衡の平和的な是正という方向を目指したとすれば、それは世界史の潮流からも自然だと言えよう。そして、そのような流れの渦中にあっては、憲法九条は(…少なくとも理念としては)世界の最先端を歩む思想を提示し得たといっても、たいして誤りではない。
 しかしながら、「非武装時代へ」という崇高な理想主義は、新たな戦争という現実の前に瓦解してしまう。それは、理念と現実のギャップという問題のほかに、占領体制という外圧を受けていた「平和憲法」の内的矛盾をも露呈させてしまうに至るのであった。(つづく)