倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「第二次保守合同」は現実化している?! -「新党ブーム」という現象を読み解く-

7月11日(日)は、参議院選挙の投票日である期日前投票をすませた人もいるかもしれないので、文字通り、選挙戦は始まっている。それにしても、いざ各候補者の政策を比較しようとすると、かなり「げんなり」した気分になる。なんでって、「候補者が多すぎる」からだ

「候補者が多すぎる」というのは、「政党が多すぎる」というのとだいたい重なる。まことに今回は「新党ブーム」である。前回の衆議院選挙でおなじみのみんなの党幸福実現党はもちろん、たちあがれ日本日本創新党新党改革と、まだなじみのない名前がならぶ。

だが、これらの乱立する新党は、「保守勢力のなかの分兵」であるということができる。経済政策における差異(大きな政府/小さな政府)はともかく、みんなかつての自由民主党が空中分解するかたちで結成されたようなものだ。

たとえば、みんなの党は、小泉純一郎以来の構造改革新自由主義改革をもっとも露骨なかたちで継承した勢力だし、幸福実現党は、かつて自由民主党の支持団体のひとつであった宗教法人「幸福の科学」の立ち上げた政党である。たちあがれ日本新党改革は、自由民主党を離党した政治家たちによって結成された。日本創新党は、母体となるのは地方首長たちだが、政策をみれば明らかに保守派だ。

以上のように、今回の「新党ブーム」の正体は「保守分裂」なのである。ここまでは誰でもわかる。

問題は、「なんで保守分裂のまま選挙戦を戦っているのか? 票が割れるだけじゃないか?」ということである。ふつうに考えれば、これは保守陣営にとって不利な布陣だ。逆にいうと、「理由があって、あえて不利な布陣を布いている」と考えたほうがいいだろう。

ここでひとつの仮説を立てよう。「相次いで結成された新党は、デコイ(=囮)である」と。

そして、この仮説のかぎを握っているのは、じつは、5年前に結成された二つの新党、すなわち、国民新党新党日本である。

昨年(2009年)の11月16日のことを憶えているだろうか。国民新党平沼グループ新党日本による「新しい保守を結集しようという動き」が顕在化した日付である。筆者は、これを「第二次保守合同」と呼んでいる。

結果的には、「第二次保守合同」は、平沼グループの慎重姿勢によって潰えた(かにみえる)。これにはいろいろ裏事情があるのだが、平沼は、当時国務大臣だった亀井をわざわざじぶんの議員事務所に呼びつけて、新党結成を断ったらしい。亀井の腹案としては、平沼が話に乗ってくれさえすれば、党代表の地位を譲り、平沼の思うままの政策を「与党の一員として」実現させるつもりだったらしい。しかし、平沼はそれを固辞した。考えられる理由としては、まあ、あまり詳しくは書かないけれど、平沼が自由民主党に戻れなくなった原因の一端は、亀井にあるからだ。

かくして、「第二次保守合同」の希望はついえたかにみえる。しかし、わたしはあなたがたにいう。そうではないのだ。「第二次保守合同」は成就しているのだ。

ここでひとつの例を引こう。ある巨大な権力によって支配された社会がある。この権力主体に対抗するには、もうひとつ別の、匹敵する権力をぶつけるのが、まあ古典的な考え方であろう。このモデルは、東西冷戦下の米ソ対立にあてはまる。

しかし、ここでアルタナティブな可能性を提示しよう。たとえ実力としては匹敵しえなくても、権力を分散し、ゲリラ抗戦を繰り広げながら、巨大なリヴァイアサンをすこしずつ衰弱させていくという方法がある。これは、かつてべトナム戦争でみられた方法でもあるし、今日的にはアルカイダなんかがそうだ。権力の分散化=遍在化によって、それぞれの実力はたいしたことがなくても、総合してみるととんでもない権力の包囲網ができている。(コンピューターネットワークのサーバーなんかもそうで、世界各地に分散化=遍在化したコンピュータが相互にバックアップしあうことで、「どれかひとつが攻撃を受けても損害が生じない」体制を構築している)。

二十一世紀の保守合同は、まさに権力の分散化=遍在化という構図をもって実現したのだ。

たとえていおう。ある巨大な大衆政党によって支配された社会がある。この権力主体に対抗するには、もうひとつ別の、匹敵する権力をぶつけるのが、まあ古典的な考え方だろう。国民新党平沼グループ新党日本による保守合同は、この線で考えられた。(じつは小沢一郎という、より高次の権力の審級が糸を引いてたという話もある)。

しかし、現実の保守合同は、この展望が潰えることによって、かえって強固な布陣として完成された。

考えてもみよう。自由民主党が結党された一九五五年と、二一世紀の現在とでは、情勢がまったく異なる。高度な情報化と資本主義市場経済によって、あらゆるモノ・情報が細分化され、断片化され、したがって、保守主義が本来守るべき〈国民〉、〈国家〉、〈文化〉なるものも解体されていった。また、かつての旧社会党のような「ある特定のイデオロギーによって形成された敵=他者」を措定することもできない。仮想敵である民主党じたいが、思想的にはつぎはぎの、ヌエのような集合体だからだ。このような状況の中で、保守陣営が統一的な「国民政党」をかたちづくることなど不可能である。保守はもはや主流派ではない。せいぜい、断片化された情報のなかで消費されるひとつの〈キーワード〉でしかない。

しかし、というか、それゆえ、新しい保守合同は、一九五五年とはまったく逆さまのかたちで実現した。それは、「合同しないことによる合同」である。保守はもはや主流派としてではなく、分散化=遍在化する権力として立ち現れている、というか、もはやそのようなかたちでしか立ち現われざるをえないのである。

今回の参議院選挙では、民主党による単独過半数は困難だと分析されている。民主党は、新しい連立結成にむけて野党各党に呼びかけるとの姿勢をみせている。もし、このような情勢のなかで、「デコイ(=囮)として分散化=遍在化していた保守勢力がフォーメーションを変更しながら、民主党をゲリラ的に狙撃する」としたらどうだろうか。

今回の選挙の争点は、消費税増税ということになっている。いつのまにかそうなっている。しかし、そんなことは数ある問題の一つでしかなくて、環境問題や食料・水の問題によって顕在化するであろう各国間権益争いのなかでの防衛戦略、そこに当然付随する憲法問題、〈国民〉の主権にかかわる外国人参政権夫婦別姓といった諸問題が、おそらくは選挙後に浮上してくるだろう。そのなかで、アルカイダ化した保守勢力が、あるときは結集したり、あるときは離散したりしながら、民主党政権の行く手をはばむ」という構図が、おそらく出来上がってくるだろう。

ほかでもない民主党にとっては、「反対派のせいで政策が実行できない」ということにしながら、重要な政治課題をひた隠しにしながら政権を4年間維持しておいたほうが都合がいいのだ。

「馬鹿共にはちょうどいい目くらましだ」とでも言ったところか。