ことばを聴かせる音楽
渡辺美里の『I WISH』は、アルバム『Baby Faith』に収録された一曲。小室哲哉が美里に提供したいちばん最後の曲でもある。実際につくられたのは1991年だけど、発表されたのは1994年のこと。
発表当時、小室はすでにtrfのプロデュースワークに成功し、音楽プロデューサーとしての一大ムーブメントを起こしつつあった時期にあたるのだが、ぼくが聴くかぎり、この楽曲にかんしては、「売り上げ」という概念はまったく考えられていない。
小室哲哉の全盛期といわれる90年代ではあるけれど、実際には、“まったく売れていないシングル曲”や、“そもそも売ることを考えていないアルバム曲”というのはけっこうあって、そういう曲にこそ、小室の“アマチュア的な力量”を感じたりする。
この楽曲についても、たとえば、AメロからBメロにつながる展開(そもそもこの曲は、A~B~サビの展開がわかりやすくつくられてはいない。ぼくが“Bメロ”だと思っている部分を“サビ”だと解釈する人もいると思う)とか、おそらく常識的な音楽理論からは外れてるんじゃないかと思う(小室のアルバム曲にはそういうのが多い)のだが、破綻するギリギリのところで楽曲の首尾一貫性を維持してしまうあたりは、やはり小室の力量だといえる。
だが、それと同時に、「世界中の誰よりキミを/理解したいと思ってた」なんていう下手をすれば大仰にきこえるコトバを「寒い朝も遅刻しないで出かけるきみ」や「3日つづきのカレー」といった等身大のイメージとみごとにつなげてみせたり、「きみにあえるのなら このままだめになってもいい」なんていう絶望的に明るい歌詩を平気でうたい上げてしまう美里の、語感の鋭さというかセンチメントの豊かさというものには、ただ息を呑むばかりである。
1999年頃、小室が『ASAYAN』の収録映像のなかで「安心してじぶんの楽曲を預けられない新人アーティストに提供するぐらいなら、美里みたいな信頼できる歌い手に託したほうがいい」と語っていたことがある。おそらく、小室自身をとりこんで当時の音楽業界が仕組んでいた販売戦略に対しての、彼なりの批判だったのだと思う。
ぼくが美里に出逢ったのも、ちょうど1999年のこと。初めて聴いたときに感じた、「そうか。“ことばを聴かせる音楽”ってあるんだ」というおどろきは、いまでもぼくの心に生きていたりする。
あれから、そして、これからも、ぼくが「ことば」にこだわって生きるようになったのは、ぜんぶ美里が教えてくれたことだと思っている。
《名もなく、まずしく、美しく、と言うか、汚れなく清らかに、懸命に・生きていたいと願う。今のような時代だからこそ歌いたい曲だけど、この時代に理解してもらえるだろうか・・・?》(ベスト盤『M・Renaissance』、美里自身による楽曲解説より)
こんな時代だからこそ、愚直なほどにまっすぐな音楽は、それだけで、聴き手の世界観をおおきくゆさぶる力を秘めている。すくなくとも、ぼくはそう思う。