倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「昭和の森公園」にて

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今日は、ふと思い立って「昭和の森公園」の“菜の花畑”を見に行ってきた。発端は、ほんの“思いつき”である。

ゆうべのmixiニュースで、こんど新しく千葉県の知事になった森田健作石原慎太郎の会談の内容が採り上げられていて、そのなかで、「千葉は原野もあって素晴らしいところ。彼(註:森田)はそれを生かすんじゃないかな」と云う石原の発言が興味をひいた。

考えてみたら、ぼくは自分が住んでいる千葉のことをほとんど知らない。

大航海時代の世界地図をみると、西洋人たちにとって前人未到な場所(たとえばアフリカの奥地、など)は、“黒塗り”にされていたりする。いまのぼくにとって、千葉の房総半島のあたりはまさにそんな感じ。「学校は東京方面だからといって、やっぱり千葉のことを知らないのではマズかろう」ということで、きのうの夜に思いついて、昼間に“大急ぎ”で行ってきたわけである。

いつもの浦安駅を、いつもとは反対方面に向けて出発。西船橋駅から総武線に乗り換えて、千葉駅からは外房線に乗り換え。一時間ほどで、「昭和の森」の最寄り駅である土気駅に到着。

電車を乗り換えるたびに、車窓の景色がすこしずつ鄙びていくのが面白い。千葉というと、いちおう「首都圏」ということになっているけど、房総半島を下っていくと、けっこう田舎の雰囲気がのこっている。北九州という斜陽都市の外れに生まれ育った人間にとっては、かえって落ち着けるような気もする。

地上から空へ目線を上げると、青空のなかに“白昼の月”が架かっていることにふと気がつく。アザラシの子どものように無垢な表情をした半月が、じっとぼくらを見おろしている。それを、流氷のような雲が、時折、閉ざしてはまた流れていく。「万物は、地球と月、そして太陽の引力のうちに支配されている」ということが、実感としてよくわかる。

それにしても、地球と月は、じつに40億年もの時間を寄り添いながら、けっきょく互いの“想い”を告げられぬまま、ずっと黙ってそばにいる。思うに、これはちょっとした“悲劇”であろう。オトコと女がわかりあえないのも、たぶんそれが遠因としてある。

さて、土気駅から「昭和の森公園」までは、徒歩であれば20分ほどである。ぼくはバスの乗り方がわからないので、電車を降りてからの道のりは、基本的に“歩く”ことになる。で、たいていは歩いている途中に目的地を見失って、そのまま帰ってくるというのが定石なのだが、今日はさいわいにも辿り着くことができた。

こんなふうに“気分”で旅をしていると、「やっぱり、ぼくは一人でいるときがいちばん自分らしく生きていられる」と思ってしまう。他人に合わせるのは、やっぱり呼吸がつまるばかりで。

人は、一人では生きていけない。だけど、やっぱり孤独で生きたい。

今日はすごくよく晴れていて、青空のなかに菜の花の黄色がよく映えていた。 雲は流れ、木々はその掌をのばす。万物は、まさに秩序そのものだ。神の手つきに“誤差”はない。

現在、Lyre(僕がよく聴いている賛美グループ)の若林栄子さんは茨城に住んでいるそうで、自分の住んでいる土地の美しい自然を通して、そうした“恵み”を与えてくださった神さまの“愛”に感謝してやまない気持ちになった、という話をコンサートのときに話してくださったことが、ものすごく心に残っている。

自分の“故郷”だとか、帰るべき“居場所”を大切にする気持ちは、かけがえのないものだと思う。

“幼心”を失わぬことはむずかしいけど、日常のちょっとした出来事に感動したり、感謝できる気持ちは忘れずにいたい。そうすれば、この地上を苦しみや悲しみが覆ったとしても、きっと“救い”や“希望”を見出していくことができるはずだから。



 Amen