■「与える喜び―奉仕と献身の実践―」■
講師の池田先生から、出席した学生全員へのプレゼント♪ ふとっぱらぁ☆
?H2>■講師プロフィール■
1936年香川県高松市生まれ。東京神学大学卒業後、1961年4月株式会社資生堂に入社。5代の社長に「秘書」として仕える。取締役秘書室長、常務、専務、副社長を経て、2001年6月に社長就任。2005年6月から現職。社長就任とともに「店頭」を基点とした大胆な経営改革に着手し、新たな成長への礎を築く。中国を中心とした海外戦略にも注力。上の者が下の者を支える「サーバントリーダーシップ」の実践者としても知られる。生活心情は「奉仕と献身」というクリスチャン経営者でもある。現在、株式会社資生堂取締役会長。東京商工会議所副会頭、日本商工会議所特別顧問、日本経団連評議会副議長、経済同友会幹事、21世紀臨調副代表、日本化粧品工業連合会会長、東洋英和女学院理事長など公職多数。――〈週報「使者」(西南学院大学宗教部編集・発行)より引用〉
■キリスト者として-奉仕と献身-
■まほろばの心-精神復興の時代-
私は、21世紀に期待しています。20世紀は、――特に戦後60年を考えると、モノがまったくなかったことから始まりました。ですから、モノ中心・経済中心にならざるを得なかったのです。このような歴史を振り返って、「21世紀こそは、ひとりひとりの幸せを願わなくてはならない」と強く思いました。それはあえて言えば、「文化中心の時代」です。
私を導いてくれた人のひとり、大平正芳氏は、1979年――つまり今から27年前、内閣総理大臣に就任しました。大平氏は、総理に就任された際、演説の中でこう言っています。――「これからは、文化の時代であるべきだ。経済中心の時代から、文化の時代へ。いっしょにつくっていきたい」と。私も時代を担いたいという思いで、お手伝いもさせていただきました。
しかしながら、世の中は相変わらず自己中心・物欲中心。人間の“業”とも呼べるものが、いまだに残っています。――「21世紀こそが……」という想いを持つと同時に、そういう想いを持つ人といっしょに、21世紀をすばらしい・人間性豊かな・他者をいたわる・やさしい時代にしたいと思っています。みなさんは、これから日本を背負う世代です。少しでも、そういう想いを持ってほしいと思います。
日本人は元来、他者や自然に対するやさしさを持った民族だと思っています。平易な言葉で言いますと、私は「お天道さまが見ている」という言葉を祖父母から教えられました。いまでも私は、聖書よりも先にこの言葉を思い出します。
ケニア環境副大臣のワンガリ・マータイ氏は、「日本語の“もったいない”を世界共通語にしたい」と仰っていました。私も同じ思いです。……もう一人、インドのマザー・テレサも同じようにお考えでした。“もったいない”という思想を世界の人が共有すれば、すばらしい世界になるのではないでしょうか。
周りの人々が使う言葉では、「おかげさま」「思いやり」――これらについても、私は世界共通語にしていきたいと思っています。
……しかしながら、先ほども申しましたように、これらの思想は個人においても企業においても欠落しているのが現状です。
40年ほど前、奈良県・薬師寺の元管主・高田好胤師はこう仰いました。――「このままでは日本は、物で栄えて心で滅びる」。この言葉に私は、惹かれるというよりもショックを受けました。高田好胤師はこうも言っています。――「私は薬師寺を建立したい。それは寺を作りたいだけでなくて、“まほろばの心”(慈悲・謙譲の心)を、もう一度この日本に蘇らせたい」――そのために布教を続けてきたのだと。そのような日本古来の慈悲、感謝の心“まほろばの心”は、ずっと日本人の間に受け継がれてきたはずです。
新しい精神復興といっても、私たちの遺伝子の中にあるものを思い出すことが大切なのです。
私を導いてくれた人のひとり、大平正芳氏は、1979年――つまり今から27年前、内閣総理大臣に就任しました。大平氏は、総理に就任された際、演説の中でこう言っています。――「これからは、文化の時代であるべきだ。経済中心の時代から、文化の時代へ。いっしょにつくっていきたい」と。私も時代を担いたいという思いで、お手伝いもさせていただきました。
しかしながら、世の中は相変わらず自己中心・物欲中心。人間の“業”とも呼べるものが、いまだに残っています。――「21世紀こそが……」という想いを持つと同時に、そういう想いを持つ人といっしょに、21世紀をすばらしい・人間性豊かな・他者をいたわる・やさしい時代にしたいと思っています。みなさんは、これから日本を背負う世代です。少しでも、そういう想いを持ってほしいと思います。
日本人は元来、他者や自然に対するやさしさを持った民族だと思っています。平易な言葉で言いますと、私は「お天道さまが見ている」という言葉を祖父母から教えられました。いまでも私は、聖書よりも先にこの言葉を思い出します。
ケニア環境副大臣のワンガリ・マータイ氏は、「日本語の“もったいない”を世界共通語にしたい」と仰っていました。私も同じ思いです。……もう一人、インドのマザー・テレサも同じようにお考えでした。“もったいない”という思想を世界の人が共有すれば、すばらしい世界になるのではないでしょうか。
周りの人々が使う言葉では、「おかげさま」「思いやり」――これらについても、私は世界共通語にしていきたいと思っています。
……しかしながら、先ほども申しましたように、これらの思想は個人においても企業においても欠落しているのが現状です。
40年ほど前、奈良県・薬師寺の元管主・高田好胤師はこう仰いました。――「このままでは日本は、物で栄えて心で滅びる」。この言葉に私は、惹かれるというよりもショックを受けました。高田好胤師はこうも言っています。――「私は薬師寺を建立したい。それは寺を作りたいだけでなくて、“まほろばの心”(慈悲・謙譲の心)を、もう一度この日本に蘇らせたい」――そのために布教を続けてきたのだと。そのような日本古来の慈悲、感謝の心“まほろばの心”は、ずっと日本人の間に受け継がれてきたはずです。
新しい精神復興といっても、私たちの遺伝子の中にあるものを思い出すことが大切なのです。
■日本の魂-新渡戸稲造『武士道』との出会い-
20世紀末の混乱を見ていて、「21世紀こそ、やさしい時代、明るい時代、ひとりひとりが幸せを感じられる時代であってほしい」と強く思いました。では、何にそのバックボーンを求めればいいのでしょう。……そのような想いを抱きながら、2001年の元旦を迎えました。
そのとき、ひとつの新聞記事に出会ったのです。産経新聞一面の、「欲望社会から名誉国家へ、今こそ崇高な精神の復興を」という記事です。この中では、新渡戸稲造の『武士道』の精神をバックボーンとする日本復興が提唱されていました。私はおおきな感銘を受けました。『武士道』の本質は、“the Soul of Japan”――つまり「日本の魂」です。私はその新聞記事を、「日本の魂を取り戻すことによって、日本復興を目指すもの」。……そう理解しています。
私は50年前にバプテスマを受けて、信仰の道を歩むことになりましたが、ほどなく信仰の問題にぶつかりました。……私はどちらかというと、西洋文化に憧れ、西洋文化を学ぶためにバプテスマを受けたようなものですから、挫折するのは当然でした。――そんなとき、ある友人が『武士道』を薦めてくれたのです。私はこの本の“接ぎ木”という考え方に惹かれました。――「日本人のあるべきキリスト者の姿は、武士道と接ぎ木することではないか」。そのように考えたのです。
若き日の想いを、2001年元旦の新聞記事で思い出させてもらいました。“接ぎ木”――もちろん神学的には問題があるのでしょうが、一信仰者といたしましては、これは大事な問題だと思います。当時私は資生堂の副社長をしていましたが、20世紀が終わり、あらたに21世紀を迎えるにあたって、改革が必要になっていました。その精神的バックボーンを見出せなかったのが、当時の私の姿でした。
会社の話をすることをお許し願いたいのですが、資生堂の創業の精神は、中国の「四書五経」の易経の一節、「至哉(いたれるかな)坤元(こんげん)、万物(ばんぶつ)資生(とりてしょうず)」――すなわち「天地のあらゆるものを融合して新しい価値をつくり、その新しい価値を社会にお役立てする」という言葉です。
この創業の精神を台木として、今の時代に合わせた仕組みを「接ぎ木」する。――私は「これしかない!」と思いました。そこで私は、改革の精神をここに求め、新しい時代の事業を展開するにあたり、そういう方法を採ってきました。……資生堂も長らく「モノ中心」という考えが色濃く刷り込まれていました。――「モノではない! モノを通じて美しくなる、モノを通じて幸せになる、モノを通じて生活を活発にしていく、……そのための下支えをさせていただく」という方向を目指しました。「お客さまのために。社会のために。」――それが“支える・仕える”ということに徹するということなのです。「上の者が下の者を支える、または仕える。」――これを実践することが、社会にとって必要なのです。私はこれを、会社で実践しました。
もっとも、「支える」の中に“感謝”がないと、生きたものになってきません。――「我々は一人で存在しているわけではない」ということが、いまの社会では欠落しています。……「一人で生きているんじゃない。他者や、社会の中に生かされている」。そう考えると、感謝の念が生まれてきます。「少しでも、周りの方々のお役に立ちたい」という、奉仕の精神、奉仕の行為が生まれてきます。
「与ふるは受くるよりも幸ひなり」とは聖書の言葉です。そのものずばりだと思います。たしかに「受くる」も大事ですが、与えられるよろこび、――これに勝るよろこびはありません。「何かをいただきたい、愛されたい」――そればかりでは、権利ばかり主張し、義務を果たさないことになります。
そのとき、ひとつの新聞記事に出会ったのです。産経新聞一面の、「欲望社会から名誉国家へ、今こそ崇高な精神の復興を」という記事です。この中では、新渡戸稲造の『武士道』の精神をバックボーンとする日本復興が提唱されていました。私はおおきな感銘を受けました。『武士道』の本質は、“the Soul of Japan”――つまり「日本の魂」です。私はその新聞記事を、「日本の魂を取り戻すことによって、日本復興を目指すもの」。……そう理解しています。
私は50年前にバプテスマを受けて、信仰の道を歩むことになりましたが、ほどなく信仰の問題にぶつかりました。……私はどちらかというと、西洋文化に憧れ、西洋文化を学ぶためにバプテスマを受けたようなものですから、挫折するのは当然でした。――そんなとき、ある友人が『武士道』を薦めてくれたのです。私はこの本の“接ぎ木”という考え方に惹かれました。――「日本人のあるべきキリスト者の姿は、武士道と接ぎ木することではないか」。そのように考えたのです。
若き日の想いを、2001年元旦の新聞記事で思い出させてもらいました。“接ぎ木”――もちろん神学的には問題があるのでしょうが、一信仰者といたしましては、これは大事な問題だと思います。当時私は資生堂の副社長をしていましたが、20世紀が終わり、あらたに21世紀を迎えるにあたって、改革が必要になっていました。その精神的バックボーンを見出せなかったのが、当時の私の姿でした。
会社の話をすることをお許し願いたいのですが、資生堂の創業の精神は、中国の「四書五経」の易経の一節、「至哉(いたれるかな)坤元(こんげん)、万物(ばんぶつ)資生(とりてしょうず)」――すなわち「天地のあらゆるものを融合して新しい価値をつくり、その新しい価値を社会にお役立てする」という言葉です。
この創業の精神を台木として、今の時代に合わせた仕組みを「接ぎ木」する。――私は「これしかない!」と思いました。そこで私は、改革の精神をここに求め、新しい時代の事業を展開するにあたり、そういう方法を採ってきました。……資生堂も長らく「モノ中心」という考えが色濃く刷り込まれていました。――「モノではない! モノを通じて美しくなる、モノを通じて幸せになる、モノを通じて生活を活発にしていく、……そのための下支えをさせていただく」という方向を目指しました。「お客さまのために。社会のために。」――それが“支える・仕える”ということに徹するということなのです。「上の者が下の者を支える、または仕える。」――これを実践することが、社会にとって必要なのです。私はこれを、会社で実践しました。
もっとも、「支える」の中に“感謝”がないと、生きたものになってきません。――「我々は一人で存在しているわけではない」ということが、いまの社会では欠落しています。……「一人で生きているんじゃない。他者や、社会の中に生かされている」。そう考えると、感謝の念が生まれてきます。「少しでも、周りの方々のお役に立ちたい」という、奉仕の精神、奉仕の行為が生まれてきます。
「与ふるは受くるよりも幸ひなり」とは聖書の言葉です。そのものずばりだと思います。たしかに「受くる」も大事ですが、与えられるよろこび、――これに勝るよろこびはありません。「何かをいただきたい、愛されたい」――そればかりでは、権利ばかり主張し、義務を果たさないことになります。