ソシュールと"ら抜き言葉"-「ギャル語」文体概論
最近、mixiの言語系コミュニティで興味深い議論に出くわしたことがある。
そもそもの発端は、言語学者の金田一秀穂先生が「心地よい日本語」と題して講演された、その内容についてである。
講演では、まず前置きとして「『正しい日本語』というものはない」として、一般に"言葉の乱れ"として指摘される「ら抜き」言葉や短縮語については、
「変化であり、乱れではない。変化するのは言葉が生きている証し」と、肯定的に受け止めていたそうだ。
そもそもの発端は、言語学者の金田一秀穂先生が「心地よい日本語」と題して講演された、その内容についてである。
講演では、まず前置きとして「『正しい日本語』というものはない」として、一般に"言葉の乱れ"として指摘される「ら抜き」言葉や短縮語については、
「変化であり、乱れではない。変化するのは言葉が生きている証し」と、肯定的に受け止めていたそうだ。
これに対して、一部のコミュニティ参加者から痛烈な批判が挙がった。
……それらを一々つまびらかにするのはさほど建設的ではないので、ざっと「まとめ」を提示すれば以下のようになる。
……それらを一々つまびらかにするのはさほど建設的ではないので、ざっと「まとめ」を提示すれば以下のようになる。
◇言葉による一義的伝達を妨げる変化は乱れに他ならない。
◇乱れとは規範からの逸脱である。
◇規範(一義的伝達ためのルール)からの逸脱は間違っているに決まっている。
◇乱れの容認は、金田一をはじめとする支配者層による"愚民化教育"である。
◇乱れとは規範からの逸脱である。
◇規範(一義的伝達ためのルール)からの逸脱は間違っているに決まっている。
◇乱れの容認は、金田一をはじめとする支配者層による"愚民化教育"である。
?H2>■言葉による一義的伝達なんて「有り得んっ!」です■
ちょっと昔、フェルディナン・ド・ソシュール(1857ー1913)という人がいたそうな。言語学者である。
彼の言語論(←「ゲンゴロウ」と誤入力しかけた)には、対応恣意性と分節恣意性という考え方があるそうだ。
ちょっと昔、フェルディナン・ド・ソシュール(1857ー1913)という人がいたそうな。言語学者である。
彼の言語論(←「ゲンゴロウ」と誤入力しかけた)には、対応恣意性と分節恣意性という考え方があるそうだ。
まず、対応恣意性とは、コトバとそれが指し示すモノとの間の対応関係についてのことで、簡単に言えば、
リンゴとかappleとか我々が使う「言葉」と、あの赤くて酸味のある果実としての「モノそのもの」とは別物だよ、
つまり「モノそのもの」に「言葉」を当てはめてるのは、人間が恣意的にやってることなんだよ。
……要約すればそういうことらしい。
リンゴとかappleとか我々が使う「言葉」と、あの赤くて酸味のある果実としての「モノそのもの」とは別物だよ、
つまり「モノそのもの」に「言葉」を当てはめてるのは、人間が恣意的にやってることなんだよ。
……要約すればそういうことらしい。
次に、分節恣意性とは、そうやってコトバで世界を分節化(区切ること)することによって、はじめて世界が認識できるんだよ、
乱暴にいえば、本質的なモノなんてなくて、コトバを当てはめることであたかも存在するように見えるんだよ、
……要約すればそういうことらしい。
乱暴にいえば、本質的なモノなんてなくて、コトバを当てはめることであたかも存在するように見えるんだよ、
……要約すればそういうことらしい。
この考え方を敷衍すれば、ひとつの結論が導き出される。すなわち、「一義的伝達なんて有り得ねーっ!」ってコトである。
少し要点を整理すると、「コトバ」というのは「モノそのもの」ではなく、「モノそのもの」を呼び表すための記号にすぎない。
だから、「コトバ」は時と場合に呼応して、様々な変化を見せるのだ。
……日本語の場合はその傾向が特に顕著で、話者の立場や場面に応じた「敬語」というものがある。
堅苦しいし、僕は敬語が苦手なのだが、客観的に見れば、
日本人の言語体系は"発話主体の関係"や"語りの場"に依存しつつ、豊かな広がりを展開したのだと言えよう。
あるいは面白い例として、「僕は鰻だ」という発話がなされたとしよう。
この場合、「コトバ」を一義的に「モノそのもの」へと結びつければ、発話主体たる「僕」は生物学的にウナギ科の硬骨魚ということになってしまう。
が、ここに「サラリーマンが・同僚と・寿司屋にて」という関係構造・語りの場を与えてやれば、
この発話は「僕」が、寿司屋の店員に向かって、目当ての料理を注文したものだと明らかになる。
少し要点を整理すると、「コトバ」というのは「モノそのもの」ではなく、「モノそのもの」を呼び表すための記号にすぎない。
だから、「コトバ」は時と場合に呼応して、様々な変化を見せるのだ。
……日本語の場合はその傾向が特に顕著で、話者の立場や場面に応じた「敬語」というものがある。
堅苦しいし、僕は敬語が苦手なのだが、客観的に見れば、
日本人の言語体系は"発話主体の関係"や"語りの場"に依存しつつ、豊かな広がりを展開したのだと言えよう。
あるいは面白い例として、「僕は鰻だ」という発話がなされたとしよう。
この場合、「コトバ」を一義的に「モノそのもの」へと結びつければ、発話主体たる「僕」は生物学的にウナギ科の硬骨魚ということになってしまう。
が、ここに「サラリーマンが・同僚と・寿司屋にて」という関係構造・語りの場を与えてやれば、
この発話は「僕」が、寿司屋の店員に向かって、目当ての料理を注文したものだと明らかになる。
言葉は、このように、発話主体の関係や語りの場によっていかようにも変化するのである。
そこにもし「規範(伝達のためのルール)」があるとすれば、それこそ時と場合によって無限のルールが存在するはずである。
つまり、言葉の変化を「逸脱」と見做すことは、関係構造・語りの場によらず不変の"言葉による一義的伝達"が存在しているという誤った仮定の上に立つ誤解に他ならない。
そこにもし「規範(伝達のためのルール)」があるとすれば、それこそ時と場合によって無限のルールが存在するはずである。
つまり、言葉の変化を「逸脱」と見做すことは、関係構造・語りの場によらず不変の"言葉による一義的伝達"が存在しているという誤った仮定の上に立つ誤解に他ならない。
またそうであれば、イマドキのJK(女子高生)あたりが使うギャル語についても、"乱れ"として非難すべきものとは言えないのかもしれない。
「学校」という(ある意味で閉鎖的な)公共空間の中にあって、彼女らが自分たちの関係・語りの場に相応しい言語体系を創出するのは、
上記のような言葉の性質を考えれば、むしろ当然のことではないだろうか。
「学校」という(ある意味で閉鎖的な)公共空間の中にあって、彼女らが自分たちの関係・語りの場に相応しい言語体系を創出するのは、
上記のような言葉の性質を考えれば、むしろ当然のことではないだろうか。
つい先日、英国へ留学されている女王殿下が記したとされるブログが、週刊誌にスッパ抜かれて大騒ぎになったことは記憶に新しい。
一国民が皇族のプライベートを云々するのは僭越にも甚だしいから、ここでは詳しく取り上げない。
ただ、女王殿下が記したとされる文章を見ると、年齢の割に"丁寧なギャル語"を用いていたということだけは敢えて付記しておきたい。
一般的な1986年生まれ(お若い!)のいわゆるギャル語というものは、フツーはあんなものではない。こんな感じだ↓
「τぃぅかぁ、親マシ〃τ〃ゥサ〃ぃUぃぃぃエーン!o(>д<。 o)。o○*1★彼氏トカ束縛た〃カラ超↓↓ち〃ゃωかぁ・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚#)ナクナ ゴラァ」
女王殿下に関する報道について、週刊誌が報じなかった"不確定情報"については論じない。(ネットにはウソ情報がいっぱいある)。
ただ、内容はともかくとして、その言葉のみを吟味するなら、それは世間の批判を集めているほど"乱れている"とは思えない。
それがあのような報道になったのは、上の世代には許せないものがあったからか。あるいはまた、背後に別の"思惑"が働いてるのか。
ともあれそれは、言語論たる本記事の範疇を超えてしまうから、この辺りで筆を措くことにする。(しまった! 元々"筆"なんか使ってねぇー!ワラ
一国民が皇族のプライベートを云々するのは僭越にも甚だしいから、ここでは詳しく取り上げない。
ただ、女王殿下が記したとされる文章を見ると、年齢の割に"丁寧なギャル語"を用いていたということだけは敢えて付記しておきたい。
一般的な1986年生まれ(お若い!)のいわゆるギャル語というものは、フツーはあんなものではない。こんな感じだ↓
「τぃぅかぁ、親マシ〃τ〃ゥサ〃ぃUぃぃぃエーン!o(>д<。 o)。o○*1★彼氏トカ束縛た〃カラ超↓↓ち〃ゃωかぁ・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚#)ナクナ ゴラァ」
女王殿下に関する報道について、週刊誌が報じなかった"不確定情報"については論じない。(ネットにはウソ情報がいっぱいある)。
ただ、内容はともかくとして、その言葉のみを吟味するなら、それは世間の批判を集めているほど"乱れている"とは思えない。
それがあのような報道になったのは、上の世代には許せないものがあったからか。あるいはまた、背後に別の"思惑"が働いてるのか。
ともあれそれは、言語論たる本記事の範疇を超えてしまうから、この辺りで筆を措くことにする。(しまった! 元々"筆"なんか使ってねぇー!ワラ
*1:。・д・。)クス嘘泣き♪