倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

明けましておま。

 今年はkamuya宅ではおとそはなしです。なぜかというと、昨日単身赴任から帰ってきた父上が帰って来そうそうぜんぶ飲み干してしまったからです。代用として、今年は梅茶でがまんです。
 すっかり忘れていたのですが、ちいさい頃から僕は梅茶が大好きだったそうです。……考えてみると、それはどうもとあるTVアニメの影響だろうと思われます。
 みなさんは「ビックリマン」を覚えておいででしょうか。チョコがバカ売れしましたね。みんなが欲しいのは付録のシールで、チョコは無惨にすてられてましたが。……「ビックリマン」はのちにアニメ化され、大人気を博しました。(大塚英志さんによれば、アニメ→関連商品ではなく、商品→アニメ化、というこの順序には大きな意味があるそうです。ただ今回はそれについてはひとまず擱きます。)
 その人気が最高潮に達したのは、主題歌「セントジュエルを探せ」でおなじみの人はおなじみの「新ビックリマン」のときでした。僕もみてました。……で、その話の中で、登場人物たちが異空間にすいこまれて、天使も悪魔も入り乱れてみんなある学校の同級生、というエピソードがありました。
 梅茶に戻ります。あるとき、校長先生のスーパーゼウスが梅茶を飲んでいると、校舎全体がおおきく傾いてしまいました。これはたいへんってことで、スーパーゼウスは大工用具を持ち出して机の上に一細工。湯飲みが傾かないための工夫です。
「ふう、これで、安心してお茶が飲める」
 いやはやすごいですねぇ(笑)…校舎が傾いたことよりも、安心してお茶を飲むことに固執するスーパーゼウス。ほんとの校長だっらば、PTAがさわぎます。
 たかがアニメと思えども、ときにはそこに最先端の小説技法が紛れ込んでいることもあってあなどれません。
 「校舎」(重大なもの)と「湯飲み」(些細なもの)という現実の価値観を大胆にすりかえる手法は、さかのぼればカフカの『変身』へといきつきます。虫になったということの方が重大なのに、仕事に遅れてしまうのを気にするザムザ。……虚構世界において現実の価値観を転倒させることにより、価値観自体の相対化を図る、言い換えれば、そのばからしさを暴きだすことができるのです。
 当時がきだった僕が「新ビックリマン」を見てそこまで考えたかは別として、とりあえずそのばからしさ加減にけらけら笑ったものでした。そして、梅茶をすすりながら、そのばからしさを密かに思い出しては思いだし笑いに耽ったのでした。僕がひとりで笑っているときというのは、決していやらしい想像をしているのではなくて、たいていは何か面白いことを考えているときなのです。