倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「映画」と「映像」の微妙な差異

 今日はTVQで「ゴジラ FINAL WARS」が放映されるようです♪ やった☆ シリーズ完結編にして、kamuyaチャート第1位(ゴジラ映画限定)のこの作品。でもTVQってことは島国九州限定とかいな? ……遠方より「倉井の策略!?」へお越しのみなさん、後学のためにも今日(2005年12月30日)ゴジラやってるかどうかご報告くださいm(_ _)m。
 さて、というわけで今日はゴジラ特集♪
 はじめは文学ネタ満載にしようと企てていた当ブログではありますが、どうやら18歳のフリーターさんなんかも覗いてくれてるようなので(…ありがと☆)、まずはもっと取っつきやすい映画とか音楽とかから始めたいと思います♪……って女の子はゴジラとか見ないよなあ、まいっか。
 さてさて、今日放映(少なくとも九州地方)の「ゴジラ FINAL WARS」(北村龍平監督)に関して、僕は以前このような論評を目にしたことがあります。――
「北村のゴジラは映画でない、ただの映像の連続だ」
 たしか「キネマ旬報」かなにかに載っていたものだったと思います、違ったかもしれませんが(笑)。とにかくそんな論評が載っていたのです。
 いやぁ、厳しいですねぇ(笑)……映画会社がせっかく「映画」と銘打ったものを「ただの映像」と言い切っちゃうんですからねえ。
 僕自身の感想としては、大好きなかいじゅうさんたちがいっぱい出てきたし大満足だったのですが、この評者さんはそれだけでは不満だったようです。曰く、「第一作目のような核兵器に対する警鐘、――そうしたメッセージ性はなりを潜めて、昭和40年代の子供向け怪獣プロレスと同じ穴のムジナである」
 はい! 僕はそーゆう怪獣プロレスが好きなんです(「FINAL~」で言うと、キングシーサーがおこって耳をがばっとそばだてるとこあたり、かわいいかわいい▽・ω・▽)。子供時代にそーゆうものに親しんでたせいか、僕はメッセージ性のかなり希薄なハリウッド映画だって、結構見てしまいます。
 けれど、作者が特定の意図をもって編集した「映画」と、そうではない単なるカットの連続としての「映像」を強いて分類するとしたら、やはり作者の意図、あるいはメッセージが大変重要になってくることは確かでしょうね。その差異がなしくずしにされてしまえば、作者の存在はもはや意味を持ちえず、制作者(会社)はひたすら視聴者の快楽欲求を満たして利益を回収するだけの単なる「資本主義市場経済の尖兵」となり果ててしまいます。……ヨン様ブームでおなじみの韓流ドラマの多くは、すでにそのような方法論で制作されているそうです。インターネットで集めた視聴者の意見に基づき、脚本までもが書き換えられるのだそうです。そうした手法に、僕は漠然と違和感を覚えるのです。……それが極限まで推し進められれば、もはや物語は受け手の想定の範囲内でしか進展し得ないのではないでしょうか。
 文学的には「作者の死」が宣告されて久しいですが、ニィチェによって「神の死」を宣告されながらも、西洋文明が以前として神にとらわれ続けているように、文学史(あるいは映画史)における「作者の死」も、文字通りカッコ付きで考えなくてはならないのかもしれません。
 ……今日は「映画」と「映像」の差異について書くつもりが、とんでもない方向に話がそれてしまいました。携帯から書き込むと上の方が見えない(画面ちいさいんで)からこういうことが起こりますm(_ _)m。
 話を強引に戻しますが、価値の多様化した時代こそ、私たちは他者に語りたいメッセージをしっかりと持たなければなりませんし、これから制作される「映画」に関しても、現実に対するメッセージがこれまで以上に求められるのかもしれません。前述の「FINAL~」に対する酷評が妥当であるとすれば、それは北村監督や僕自身を含めた若い世代が、メッセージ不在の時代・映画不在の時代の「映像」に既にどっぷり浸っているということなのでしょうね。