倉井の策略!?

なんか ちょっと おもいついたことなどを かくのです。

「現実」と「虚構」の緊張関係

イメージ 1

  ■はじめに■ 

 「エピソード1」がおもしろい。――映画の雑誌にそんなことが書いてあったのでビデオで見てみた☆
 おもしろいおもしろい▽・ω・▽♪
 公開当時は、十数年ぶりの新作ということもあってファンの期待が過剰に高まってたから、「期待はずれ」の不評もしかたなかったと思うけど、全サーガが完結した現在から見直してみると、素直に面白いと思えるから不思議なもの。ストーリー展開も秀逸だし、後半のポッドレースやライトセイバーの殺陣など、公開当時には気づかなかったけどやっぱりいい映画だ。



  ■エピソード1不評の理由■

 では、「スターウォーズ エピソード1 ファントムメナス」は、公開当時になぜ酷評を買ったのだろう。ジャージャーがはしゃぎ過ぎたのはおいといて、……
 
 やっぱりそれは、「現実の戦争へのイロニーたりえていない」という一点が挙げられると思います。……僕は頭がわるいので、イロニーという語を適切に使えているか分かりません。ここでは単純に日本語の「皮肉」程度の意味だと捉えてください。

 「エピソード1(以下「EP1」)」が公開されたのは1999年。世界史的には、冷戦の終結から同時多発テロ発生の間の、ぽっかり空いたつかの間の「平和」(もちろんカッコ付き)だった時期です。旧三部作が現実のベトナム戦争を踏まえて制作されたことを考えると、「EP1」がメッセージ性において弱くなってしまうのは、ある意味当然だったかもしれません。
 


  ■「虚構」と「現実」の緊張関係■

 では、続く「エピソード2 クローンの攻撃」(2002年)、「エピソード3 シスの復讐」(2005年)に関してはどうでしょう。
 両作品の制作時期はそれぞれ、同時多発テロ後のアフガン侵攻(「EP2」)、イラク侵略・占領失敗が決定的になった時期(「EP3」)です。――「EP2」の制作当時、ルーカスは同時多発テロとその後の情勢に合わせて映画を大幅に修正した、と語っていました。……ある所では、「この映画の基本はベトナム戦争の頃に作成したノートのままだ」とも言っていますが、「EP3」終盤の火山口でのアナキンの台詞、――「味方にならないなら、敵と見るしかない」という台詞が、ブッシュ大統領の演説のオマージュとなっているなど、現実に進行しつつあるイラク戦争を何らかのカタチで意識しているのは明らかです。
 「EP2」、「EP3」が好評を博したのも、虚構である作品の中に現実の戦争との緊張関係を持ち込んだからではないでしょうか。

 ちなみに、雑誌の「現代思想」で、どなただったか「新三部作は、旧三部作におけるダース・べイダーのごとき象徴的悪を描くのに失敗している」と評していましたが、これは的外れではないにせよ、ちょっとズレているのではないかと思います。冷戦が終結し、テロルという「見えざる脅威(意訳すれば「ファントム・メナス」?!)」に直面した現代世界にとっては、「悪」とは特定のキャラクターによってわかりやすく象徴されるものではないはずです。
 ただ、この「象徴的悪の不在」という評価自体が、今日の「敵が見えない」戦争に対する我々の「戸惑い」や「ためらい」を表しているとすれば、やはりそこに留意する意味はあると思います。



  ■まとめ■

 芸術は、時に現実をぶち壊すぐらいの力を有しています。日本ではなぜだか「芸術のための芸術」、「あるいはエンターテインメントとしての芸術」が持てはやされて、そこに何らかの政治性・思想性が介入することを嫌う傾向があります。
 けれど、「虚構」が単に「現実」の世界の我々を楽しませ、癒すだけのものかというと、それはちょっとちがうと思います。――「現実」には達成できていない「理想」とか「正義」とかそういったものも、「虚構」の中でなら自由に表現することができます。チャップリンナチス・ドイツの時代に成し遂げたことを見てください。「理想」や「正義」を掲げずしては、帝国と化したアメリカの暴走を止めることもできませんし、それをやらないとすれば、それは芸術の怠慢です。
 
 ……それとも、「国益」のために「正義」を棄てた日本人には、やっぱり「癒し」ぐらいがちょうどいいのかな。
 


 (…以前書き込もうとして誤って消してしまった記事を再度書き込みました。めんじーじょ~↓↓(T_T)。